2018年の年末にこのブログを始めたからちょうど2年が経過した。
ということで、今日はブログ2年目の2020年を振り返ろうと思う。
ただ、今年は昨年のように「〇月はこういう記事を書いた」というようなテーマの解説でなく、主に「どんな背景や心境で記事を書いたのか」についての話をしたいと思う。
・「作品」と「言葉」
今年は海外よりも国内に関する記事を多く書いた。
それも多くが個人を中心とした物語ではなく、制度に焦点を当てた話であった。
仕事に関する記事は昨年も存分に書いてきたが、今年は家族や結婚について書くことが増えたことも大きな変化である。
昨年のような記事を期待していた方は、「つまらない」と感じたかもしれないが、このような路線を選んだのはネタ切れなどではなく、それなりには理由があってのことであった。
これまでも何度か言った通り、私がブログを書いている理由は、今の生活に苦しんでいる人に対して、この世界にはたくさんの別の社会が存在していることを伝えるためである。
それが彼らにとって少しでも生きる希望になれば幸いだと思っている。
私はこれを伝えるためのアプローチとして2つの方法を考えていた。
ひとつは、作品を通して、そのような世界があることを表現することである。
メディアの世界では映画、マンガ、ドラマなどがそれに当たる。
また、「作品」と呼ぶには違和感があるが、スポーツや芸能活動を通して伝えることも同じだと思っている。
そして、もうひとつの方法が書物などを参考にして、社会の制度や仕組みを「言葉」で直に解説することである。
このブログで言えば、「伝統的で温かいひとつの家族」というウソや、昭和時代ですら「日本的」とか「普通」と呼ばれる生き方をしていた人は3割しかいなかったがそれに当たる。
作品は数多の言葉を並べるよりも人々を勇気づける力はあるが、伝えたいことを正しく受け取ってもらえるとは限らない。
言葉は伝えたいことを誤解なく訴えることはできるが、理屈で説明することで理解してもらうことはできても、共感を得られるとは限らない。
この2つの方法にはそれぞれ一長一短である。
実際は社会への復讐に燃える男や早く地元に戻って就職、結婚をすることをしつこく勧めるオヤジとの決着をつけに行くのようにそれぞれが入り混じっている記事もあるため、完全にこの2つを別物だと考えることはできないが、補助線にはなる。
この2つに加えて、私が日常の生活で感じたことを書く日記の3種類から、このブログは成り立っている。
私は社会調査を行ったり、統計を扱う専門家ではないが、別の世界に住んで、別の生き方をしている人の話をすることはできる。
実際に、私自身それで救われたことがある。
前々回の記事で私がアメリカ人のおバカ映像を見て、初めて海外に憧れた話をしたが、その際に
「アメリカは日本よりも若年失業率が高く、収入の格差も大きいため、誰もが定職に就いたり、自分の家庭を作ることは容易ではない。だけど、仲間同士が寄り集まって、日々の生活を…」
というような解説などなくとも、彼らの生き生きとした姿を見るだけで、希望を与えられた。
そのような経験もあって、ブログを作る時に言葉よりも作品を中心とすることを決めた。
・変化のきっかけ
その方針を変えるきっかけはこの記事でも書いた、昨年の12月に、早く地元へ戻って就職と結婚をするようにしつこく説教する元同僚と決着をつけることになったことで生まれた。
決戦へ向け、秋頃から理論武装の準備をしていると、この本を読むことになった。
山田昌弘(著) 朝日新書
「結婚不要社会」というやや過激なタイトルとは裏腹に、結婚についての知識を一から教えてくれる入門書のような本である。
この本は昨年の夏に書いた記事で紹介していたように、以前から所有していた本であり、一度読み終えた後はしばらくの間、本棚に置いていたが、決戦の際に、「結婚とは何か?」「結婚をしたら豊かになるのか?」を彼に問い質すためにも、先ずは私がそのことを学ぼうと思い、改めて読み直した。
私は結婚に興味がなかったため、結婚できないことをそこまで悲観的に捉えたことはなく、他人事でしかないと思っていた。
ただ、現在の日本社会が陥っている「結婚困難社会」とそれによって苦しめられている人が過去の自分と重なって見えた。(その時の経緯はこちらの記事に書いている)
これは昨年の秋頃の話であるため、厳密に言えば、2020年の出来事ではないが、これは私の中で革命的な出来事だった。
10年ほど前に孤独に苦しんでいた時に救ってくれた本に匹敵する程の影響力があった。
それ以降、仕事や家族に関する本をいくつも読み漁るようになった。
すると、夫(子どもから見れば父親)の収入だけで家族を養う「男性稼ぎ手モデル」や、結婚したら仕事を辞めて、家族のサポートを中心に生きる「専業主婦」のように、「かつては当たり前だった」と思われている生き方でさえ、実は昔から多数派ではないことも分かった。(詳しくはこちらの記事に書いている)
つまり、先ほどの結婚困難社会と同じく、そもそも存在しないものを規範の基準としていることで多くの人が自縄自縛しているのである。
一人で妄想に縋るだけなら自由であるが、その手前勝手な理屈を他人にも強制しているのだから悪質極まりない。
おそらく、結婚できないだけでなく、自分の状況を理解してくれる人がいないと悩んでいる人が少なくないはずである。
私はそのように苦しんでいる人に向けた記事を書きたいと思っていた。
…のだが、そのようなテーマは外国人の話とは相性が悪い。
他国に住んでいる人がそのような呪縛を逃れ、どれだけ充実した生活を送っているという記事を書いたとしても「所詮は他所の国に住んでいるのだから…」という諦めの方向へしか向かわないからである。
今年1年間で書いた記事を見渡してみても、そのような意図を込めた書くことが出来た記事は友人関係の延長で結婚した台湾人夫婦の話、と40代後半になっても彼氏との恋愛を楽しむアメリカ人女性の話、「日本人にとって家族とは誰のことか?」という疑問を呈したフィリピン人の3本だけだった。
そんな状況だったため、悠長に「立派な家族になどならなくても楽しく生きている人」を紹介するよりも、制度や慣行の話を取り上げる方が有効だと判断した。
だが、それが効果的であったのかは定かではない。
実際に、そのような思いを込めて書いた記事はそこまで多くの来訪者を集めているわけではない。
アクセス数が多い記事の大半は昨年書いた記事である。
また、読者の気を引いたのか、連続で読まれていることが多いのは外国やオンラインの話に関する記事である。
というわけで、今年の路線を来年も続けるか否かは大きな悩み所である。
ご意見やご要望のある方はぜひともご連絡頂きたい。
・ブログをやっていて良かったと思う時とこれからのこと
さて、ここからはブログを運営していて感じたことを書いていこうと思う。
今年は昨年に比べるとブログの来訪者や閲覧ページ数は2倍以上になったが、それよりも増えたのは送られてくれるメールの数である。
その際のやり取りから生まれた記事も何本か書いた。
応援のメールをもらうことは、私がブログをやっていて良かったと感じることのひとつでもある。
ただ、直にメールを送ってくれなくても、アクセス記録で深夜の2、3時といった時間帯に日雇い派遣経験シリーズやデタラメな結婚の伝統シリーズを見てくれている人がいると分かると何だかホッとする。
あまり明るいテーマではなく、どちらかというと、苦しい思いや寂しさを抱えていて、夜も眠れない人が読んでいることは容易に想像できるが、そんな人たちに少しでも寄り添うことができているのなら、ブログを書く意味も少しはあったと実感する。
ブログを始めて2年が経過したが、この2年間でブログを辞めたいと思ったことは1度もない。
その期間に転々とした仕事が1.2.3…
とにかく、仕事よりも続いているようである。
もっとも、ここまで継続できた一番の理由は大したプライベートもなく、友達もいないため、多くの時間を割くことが出来るからであろうが…
内容は当初予定していた路線から大きく変わった。
もしも、外国の暮らしや外国の人の考えを中心にした記事を書き続けていたら、もう少し多くの人に楽しく読んでもらえるものとなり、少なくとも、仕事で関わっている人に、自分がブログをやっているということを隠さずに堂々と公表できたのかもしれない。
「副業をやっているから」という大義名分として、正社員にならない理由に使えたのかもしれない。
とはいえ、後悔など全くない。
これからも、今までと同じ路線でブログを続けていくつもりである。