「人と論は別である」という主張は責任を持って使おうね

2ヶ月ほど前に、日本ペラペラの韓国人の話をした。

彼は日系の会社に勤めており、私とは韓国企業と日本の企業の違いを話すことが多い。

そんな彼が、最近面白いネタを提供してくれた。

・日本人もビジネスの場では激しくぶつかり合うべき?

日系企業で働く韓国人の彼が私に告白した職場への不満(疑問)はこのようなものである。

日系企業勤務の韓国人男性:「以前、先輩から『お前は上司に意見を言い過ぎだ』と注意されたことがあります。日本の会社ではあまり上司に意見を言わない方がいいのですか? ビジネスの場では真剣勝負だからこそ、言いたいことをぶつけないといけないと思うのですが…」

彼の感覚が韓国企業では一般的なものなのかは定かではないが、確かに私も「韓国に限らず、外国(特に欧米)のビジネスシーンではお互いに本音をぶつけて議論する」というイメージは持っていた。

「日本人は職場で自己主張しなさすぎる!!」

「もっと、海外を見習って、本気でぶつからないと!!」

こんな意見は今までにも何度も耳にした。

外国人だけでなく、日本人の口からも。

そして、「日本の会社は生ぬるい」とみなし、海外式を推奨する人は決まってこのような理屈を展開するのである。

「日本人は議論に慣れていないから、否定的なことを言われるとすぐに傷つくけど、海外では決してそんなことはない!!」

「彼らは『人と論は別』だと分かっているから、仕事のやり方を巡って激しくぶつかっても、議論が終わればラグビーのノーサイドと同じであり、お互いに水に流すことができるんだ!!」

「グローバルの時代だからこそ、日本人も同じ意識を持つべきだ!!」

彼らはこのようなことをドヤ顔で言っているのだが、私は、たとえ「海外では~だ!!」という言い分が事実であったとしても、彼らにそれを真似する覚悟があるとは思えない。

今日は私がアメリカ人と共に働いた時の話を基に、この「人と論は別」という意見について考えてみたい。

・マネージャーに盾突くアメリカ人スタッフ

私はかつて、アメリカ資本の会社で働いていた経験がある。

その会社では多くの外国人が雇用されており、彼ら外国人スタッフの労務管理を行っていたのが、アメリカ人のマネージャーA氏(仮名)だった。

外国人スタッフがどの業務を担当するのかについては彼が決定していた。

ある日、彼が作成した業務割り当て表を私が担当する業務のスタッフに送信すると、当日中に一人のアメリカ人スタッフ(仮名:B)からクレームが入った。

クレームの内容は「俺は去年までこのプロジェクトの担当だったのに、なぜ今年は選ばれていないんだ!!」という不満である。

「普段は業務連絡の締め切りを守らないのに、なんで、こんな時だけは電光石火の当日返信なんだよ!!」と私の方もブチギレたくなったが、彼の苦情は私にどうすることもできないため「その不服申し立ては直接A氏に言ってくれ」と返信した。

すると、彼は、これまた時間にルーズな普段の彼とは対照的に、早くもその日の午後に事務所へやって来て、ものすごい剣幕でA氏に詰め寄っていた。

近くで聞いていた人の話によると、

「お前に俺を外す権限があるのか!?」

「俺が何年この仕事を頑張ってきたと思っているんだ!?」

と一方的な怒りをぶつけていたようである。

さすがにマネージャーであるA氏は多くのスタッフがいる前で応戦するのはマズいと思ったのか、Bを外に連れ出して別室で話をしたようである。

そこで、彼はB

・該当行事は多くのスタッフが参加を希望するため、一人のスタッフは最長で3年までしか連続で参加できないことが会社のルールであること。

・これまでのBの頑張りを認めても、彼だけを特別扱いすることはできないこと。

を告げ、和解した。

その後の二人は特にわだかまりもなく、以前と同じような態度で接していた。

これがお互いに激しく意見をぶつけても、議論が終われば、ノーサイドと考える欧米流のビジネスなのだろう。

もっとも、今回は建設的な議論ではなく、Bが自分の都合で一方的に上司に怒りをぶつけて、A氏が大人の対応をしただけのような気がするが…

A氏は現場職から管理職へ昇進した人物であり、かつてはBと対等の立場だった。

Bもその時と同じ感覚でA氏に接していたのかもしれない。

A氏は外国人スタッフだけでなく、私たち日本人の事務員に対しても気さくに接してくれる人物だった。

たとえば、彼が定期的に行う外国スタッフとの面談は私たちが日時のセッティングをしていたのだが、例によって、彼らの多くは締め切りの日時までに連絡を返さない。

その度に、私は恐る恐るA氏に遅れを報告するのだが、彼はいつも笑顔で「Don’t worry」「Take it easy」と声をかけてくれた。

・ヤクザに十手を持たせるようなもの

アメリカ人であるスタッフBとマネージャーA氏のやり取りを見ていると、

「アメリカ人はビジネスシーンでは立場に関係なく本気で激しく議論をする」

という意見は本当のように思える。

もちろん、この人たちを見れば分かる通り、アメリカ人全員がそのようなメンタリティを持っているわけではなく、今回の一例だけを根拠に「アメリカ人は~」と断言することはできないが、実例ゼロの都市伝説よりは信憑性があると考えても差し支えないだろう。

さて、本日のテーマで最も重要なのはここからである。

「人と論を区別して考えろ!!」と主張して、ビジネスシーンでは欧米人のような激しいぶつかり合いを求めている人は、当然、私が目の当たりにしたアメリカ人のBと同じ行動を推奨し、それを受けたA氏の振る舞いを上司が取るべき理想の対応だと宣伝しなければならないはずである。

上司が相手であろうと論破する覚悟で徹底的に自分の意見をガンガンぶつけて、部下が喧嘩腰であっても力(権力)に訴えることなく冷静に議論で勝負しない人間はマネージャー失格であり、もちろん相手がお客様(顧客)であっても、「言うべきことは言わないと!!」というように。

だが、私はこれまでそのような意見を一度も聞いたことがない。

彼らは「人と論は別」という主張を大学教授や上司から厳しい言葉をぶつけられる、学生や下っ端社員に対してはこれでもかと突き付ける一方で、

「上司であろうと、自分が正しいと思ったら、絶対に妥協せずに自分の意見をぶつけろ!!」

「それに腹を立てるような奴は管理職になる資格がない!!」

というように立場が強い相手であってもガンガン喧嘩することを一切推進しようとしない。

それは、とんでもなく卑怯なことではないか?

立場が弱い人にはどんなにボロクソに罵倒されても、

「これはビジネス上のやり取りだ!!」

「そんなことで、泣くな、逃げるな、パワハラだと騒ぐな!!」

と耐えることを強制するのなら、学生や部下、下請けの取引先から議論で激しく詰め寄られても、感情的にならず、議論が終われば、その後もこれまでと同じような関係を継続することを要求しなければフェアではない。

「弱い相手には仕事なのだから厳しく批判するけど、自分が正論を叩きつけられたら怒ります」

このように、立場にものを言わせて他人の人権を踏み躙ることは大好きだけど、自分の人権が傷つけられることには敏感な人間に、「人と論は別」という理屈を与えるのは、いじめを「遊び」、痴漢や強姦のような性犯罪を「いたずら」と言い換えることと同じであり、先日、いじめをテーマにした記事で紹介した内藤朝雄氏の本で使われていた言葉を借りるなら「ヤクザに十手を持たせるようなもの」となる。

A氏のような振る舞いをする度量も覚悟もないければ、これからも遠慮して相手に本音を伝えない「日本流」に甘んじるべきである。

もっとも、悪質なことに、この手の人間の多くは、立場の関係で相手が反論できないことを「自分が正論を言っているから反論できないんだ!!」と勘違いしているようだが…

自分がされて嫌なことは他人にもしてはいけない。

それは当たり前のことである。

というわけで、「人と論は別である」という主張は、自分も厳しく反論されたり、厳しいことを言う人に対しても分け隔てなく接する覚悟と責任を持っている人だけが使いましょうね。

「議論だから何を言ってもいい」と思って、人のことをボロクソに貶す一方で、自分が同じことを言われたら怒ることは、「議論」ではなく、れっきとした「弱い者いじめ」である。

何度でも言う。

いじめサイテーだよ。

カッコ悪いよ。

〇ーシー~♪

(注:パロディーのネタ元はJリーグのCMです)

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