昨年の暮れ頃にこんな記事を読んだ。
「すごい国。誰も結婚して子どもを持とうと思わないでしょうね」勤続18年で手取り13.3万円の40代女性 | キャリコネニュース (careerconnection.jp)
記事の概要をまとめると・・・
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大手重工業の会社で働く40代前半の女性(兵庫県/正社員/既婚/子ども2人)が、自身の状況をサイトのアンケートに投稿。
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彼女は26歳から勤続18年にもかかわらず、手取りはわずか13万3000円、年収およそ200万円。毎年500円ほど月給が上がるがボーナスで減らされるため、年収としてはまったく上がらない。
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彼女は本社の社員ではなく請負会社の正社員として、月給制で働いている。
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勤務場所では、言葉で評価されるが、昇給につながることは皆無。
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長く勤めているため、仕事は増えるが、残業しても残業代の申請はできない。
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勤務先の大手正社員の給料は年々上がるが、彼らと同じような、もしくはそれ以上にレベルの高い仕事を何年もしていても、自分たちの給料は年々下がる。
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そんな社会では、誰も結婚して子どもを育てながら生きようと思って当然だ。
その記事を読んだ私は、早速このブログで取り上げようと思ったのだが…
・擁護したくてもできなかった理由
冒頭ではオリジナルの記事のURLを貼っているが、私は元々、別のサイトで引用されていたことで記事の存在を知った。
そのサイトには多いにコメントが書き込まれていたのだが、案の定というか、20年近く正社員として働いても、一向に給料が上がらない彼女を
「無能だ!!」
「自己責任だ!!」
「文句があるなら自分の会社に言え!!」
「国や大手の勤務先のせいにするな!!」
と罵倒する声が圧倒的だった。
だが、私はそうは思わなかった。
彼女が働き始めた18年前、私はまだ学生で、多くの大人から進路について説明された。
そこで、「フリーターは何年続けても昇給もせず、働けなくなったら非情に捨てられるが、正社員は勤続年数に応じて昇給するし、たくさんの福利厚生もあるのだから、つらくても、給料が低くても絶対に辞めてはいけない!!」というような社会の秩序を口酸っぱく叩き込まれた。
おそらく、彼女も似たようなことを言われた結果、待遇が低くても正社員という椅子にしがみついていたのではないだろうか?
そして、長年低賃金で馬車馬のように働かされた報酬を受け取るはずだったタイミングで、その褒美はウソだということが発覚した。
果たして、それは自己責任なのか?
それこそ、前回、前々回と取り上げた私が大嫌いな「正直者がバカを見る」の典型ではないのか?
そんな欺瞞に満ちた社会と無責任に自身の宗派を広めた信者への怒りも込めて、おおよその下書きを書き上げた。
しかし、元ネタとなった記事にどうしても腑に落ちない点があるため、結局公開中止になってしまった。
それはたびたび登場する「請負」という言葉。
投稿者は自身のことを「正社員」と言っている通り、請負会社の正社員として、大手の重工業会社に常駐しているのだろう。
だが、一部の文脈では自身のことを「請負社員」と呼んでいたり、「残業しても残業もつけられません。請負は仕事の量に対して会社が会社にお金を払うため。時間に対して払うわけでないので」というように、正社員ではなく、請負契約を結んで働いているかのような箇所が見受けられる。
そうすると、話は変わってくる。
私の主張は彼女で正社員として働いていることが前提なので、「実は請負契約で働いているので、正社員ではありませんでしたー」ということになったら、成立しなくなってしまう。
①:請負契約を結んで働くこと。
②:請負会社の正社員として働くこと。
賢明な読者にとっては説明不要だろうが、この2つは全く違う。
個人が直接請負契約を結んで働く時は労働基準法の適用対象外で、それこそ、彼女が言っているように、「時間に対して払うわけではないので」残業代も割増賃金も発生しない上に、有給休暇や最低賃金等の労働者の権利も一切与えられない。
しかし、請負会社の正社員の場合、仕事をする場所が客先(発注者)というだけで、雇用の責任は請負会社が負うことになるし、残業代や有給休暇、最低賃金などの労働者としての権利も認められる。
雇用契約と請負契約の違いとは?それぞれの内容・注意点を解説 – バックオフィスクラウドのジンジャー(jinjer) (hcm-jinjer.com)
「派遣」と「請負」の違いとは?働く際の注意点を解説 | エンジニア派遣、製造業アウトソーシングのDPT (dpt-inc.co.jp)
・なぜこんな物が世に出た?
今回のケースでは、「請負」の意味はほぼほぼ後者だと思うが、所々で前者を匂わす発言が見られるため、憶測だけで断言することはできない。
しかも、請負会社の正社員として働く場合は、発注者と共に働くのではなく、仕事の指示も雇用主である請負会社の社員が行う必要があるため、
「勤務場所では評価されても言葉のみで、本社がそれを反映し昇給につながることも皆無」
「大手重工業の正社員と同じような、もしくはそれ以上にレベルの高い仕事を何年もしていて」
という請負先の労働者と密接に関わって働いている発言においても若干矛盾が生じている。
そんなことを考えていると、私はある結論に行き着いた。
彼女が直面しているのは、社会や経済の問題ではなく、不払い労働や偽装請負のような労働(ブラック企業)問題ではないか?
上記の発言に加えて、「最低時給を国が上げたところで、月給の私たちには一切関係なく、むしろアルバイトやパートと同じような給料になるだけ」と言っていることから想像するに、彼女はおそらくあまり、賢くないと言ったら失礼だが、社会のことに明るくない人なのだろう。(給料が月給制でも最低賃金は適用されます)
最低賃金額以上かどうかを確認する方法|厚生労働省 (mhlw.go.jp)
そのことで、騙されて、都合がいいように搾取されている可能性が極めて高いのである。
この社会にそのような人がいること自体は特に驚かない。(騙すという行為自体は当然問題だが)
私が驚いたのは、「よくもまあ、こんないい加減な記事を世に出せたなあ」ということ。
「勤続18年で手取り13.3万円」というセンセーショナルなタイトルだけで読者が釣れると思ったのか、投稿者への取材や、「請負労働」の定義の確認は一切行った形跡がない。
素人である投稿者が、誤った認識に基づいて発言することは仕方ないにせよ、記事の中ではそのことについての訂正も一切ない。
まとめサイトや個人のブログが、投稿者の発言だけを拾って、お気楽な記事を書くことには何とも思わないが、この媒体は65万人以上の会員がおり
”ビジネスやキャリアの「今」を伝えるニュースサイト”
“会社や業界のちょっとディープなネタや、仕事に役立つ実用的な情報まで、現代のビジネスパーソンに役立つ情報をお届けします。“
“すべての働く人たちに役立つ最新情報をお届けします。“
とも謳っているサイトである。
キャリコネニュースについて(媒体資料はこちら) (careerconnection.jp)
にもかかわらず、「自分たちが『請負』について誤った認識を広めることで、読者が不当に搾取されたら?」とは考えなかったのだろうか?
書く方も書く方だが、こんな記事にOKを出した方の神経も疑う。
以前、この記事で、「『安定した正社員』という宗教観をしつこく押し付ける人々は死神である」と書いたことがある。
その理由は、彼らが、公的保険が原資であり、非正規労働者であっても受給資格がある失業保険や傷病手当、育児休業給付金等の社会保障をあたかも「正社員だから会社が保障してくれるお金」のような口調で語り、最も必要としているであろう低所得で不安定な非正規労働者を制度から遠ざけているからである。
床屋談義レベルの場所ならともかく、教育現場やメディアでそんな「ウソ」や「デマ」と呼ぶに値する情報を垂れ流すことは無責任の極みである。
しかも、「弱者の味方」でいる(自称している)側の人間がそのようなことをやっているのだから、なおさら質が悪い。
今回の記事にも同等の危険性を感じた。
・実家住まいで出産をしない人は邪道なんだって
最近、それとは別件で腹が立つネット記事を見かけた。
月収13万円でも貯金200万円、実家暮らしを満喫する40代“子供部屋おじさん”のリアル | 日刊SPA! (nikkan-spa.jp)
記事の内容は「子供部屋おじさん」(※:私はこの言葉が嫌いだが、ここでは紛らわしさを生まないためにこの言葉を使う)と呼ばれている実家暮らしをしている40代の男性を取材したもの。
彼は工業高校を卒業した後、定職に就かず、24年間日雇い労働を続けている。
今の月収は13万円程だが、貯金が200万ほどあり、親との関係も良好なことから悲壮感は全くない。
「ヤバい」、「恥ずかしい」、「自立しろ」という友人やメディアの言葉もどこ吹く風。
ちなみに、彼には7歳と3歳年上の姉がいるのだが、2人は高校卒業と同時に家を出て、今では結婚してそれぞれ子どもが2人ずついる。
こちらの記事は最後に「本人や家族がそれで幸せというならば、他人が口出しすることではないのかもしれない」と書いているだけで、特に彼の人生や「子供部屋おじさん」について論評していない。
なるほど。
その点においては、低俗な「子供部屋おじさん」叩きの記事とは違う。
だが、私が聞捨てならんのは、記事の中で彼の2人の姉について「王道ルートの人生を歩んでいる」と発言していること。
王道という言葉には大きく2つの意味がある。
ひとつは「楽な道」「近道」という意味。
よく「学問に王道なし」というフレーズで耳にする。
もう一つが、「物事が進むべき正当な道」、「基本に忠実な方法」などの意味。
言い方を変えると「正統」や「定番」とか。
王道の意味や対義語とは? | 意味解説ブログ (goldencelebration168.com)
「子供部屋おじさん」との対比に、前者の意味で「王道」という言葉を使うとは考え難いため、今回の記事ではおそらく後者の意味であろう。
なお、そちらの対義語は「邪道」である。
この理屈を先ほどのフレーズに当てはめると「実家住まいで出産をしない人は邪道」ということになる。
これは取材対象の「子供部屋おじさん」ではなく、日本全国の実家住まいで出産をしていない人への侮辱的な発言であり、許容できるものではない。
大物政治家が同じ類の発言をして「多様性の尊重やジェンダー意識の欠如だ!」として袋叩きに遭って、後々謝罪に追い込まれるパターンが(それこそ「王道」と呼んでいい程)多く見られる。
本人に悪気はないのかもしれないが、それくらいの問題発言なのである。
政治家の失言は、油断してポロっと本音を漏らしてしまうことが原因だろうが、ネットの記事の場合、公開前に第三者が原稿に目を通してチェックするはずである。
にもかかわらず、誰もその発言を止めなかったのだろうか?
きっと社内全体も同様の価値観を有しているのだろう。
今後、政治家が同様の発言をした時に、彼らがどのような反応をするかは大いに注目である。
・マスゴミというけれど…
今回、私が言いたかったことは、タイトルの通り、「ネットの記事にジャーナリズムの精神はあるのか?」ということ。
ネット信者には「テレビや新聞の大手メディアは偏向報道ばかり」と憤り、彼らのことを「マスゴミ」と蔑む者が少なくない。
しかし、今回取り上げたような記事は、大手のメディアであれば間違いなく内部チェックの段階で引っかかり、修正を余儀なくされ、そのままの形で世に出ることはなかっただろう。
もちろん、ネットの記事でも素晴らしいものはたくさんあるが、立場が弱い人への共感や「読者がどう受け取るか?」という想像力が欠如し、ろくに取材や事実確認もせずセンセーショナルな見出しで読者を集めることしか考えていないと思われるものも少なくない。
そんな無責任な記事を垂れ流す人間にジャーナリストの資格はないだろう。
私も収益化こそできていないが、ネットメディアを運営して不特定多数の読者に情報を発信している者の端くれであるため、今回のテーマは他人事ではない。
そんな自身への戒めも込めて今回の記事を書くことにした。