安心出来る老後のカギはスープの冷めない距離

前回からお送りしている「ジューンブライドを機に考える家族の話」シリーズ。

今日はその第2弾になる。

結婚した時はお互いの気分が高まっていて「何とかなるだろう」程度にしか思っていなくても、後々避けて通れない問題が親の介護。

前回の記事で登場したB氏(仮名)のように、結婚後に妻との間に板挟みになり、仕事に支障が出てしまうことも珍しくない。

ただ、個人的な意見としては、この問題に頭を悩ませている人は、かなり良心的で親想いの好人物だと思う。

「財産分与など貰えるもんは貰っとくけど親の世話なんて知らねーよ!!」と吐き捨てるバカ息子(娘)だっているから。

世の中の大半はそんな親不孝者ではないと信じたい。

というわけで、今日はそんな年老いた親の生活との関係について話をしたい。

・「昔は親の介護が必要なかった」という誤解

2年前のジューンブライド企画では主にこの本を参考に用いた。

私たちが当たり前と思っている結婚、家族生活は大体こんな感じである。

・お父さんが正社員として会社勤めをする

・お母さんが専業主婦として家事や育児を担う

・子どもが2人いる

・互いの両親から独立している

このような家族が栄えたのは決して、日本の伝統でも、人類にとって普遍的な家族の様式だからでもなく、日本社会が人口転換期を迎えていたからに過ぎない。

子どもは多いが、全員成人するまで生きることができない「多産多死社会」から、生まれてくる子どもは少ないが、ほとんどが成人することができる「少産少死社会」への転換期の過程では、生まれてくる子どもは多いが、ほとんどが成人することができる「多産少死世代」が生じる。

それが昭和一桁生まれから団塊の世代までである。

多くの人が上記の結婚生活を送ることが可能だったのは、この世代が結婚の担い手となっていた時代だったからで、すごく単純化して言えば、「自分たちは4人兄弟で育ち、親としては子どもを2人育てる」という図式だからこそ成立したのである。

その事実を無視して、「その家族こそが目指すべき唯一の正しい生き方である」という認識で物事を考えると必ず歪みが起きる。

それは親の介護も同じである。

「昔の親はしっかりしていて、子どもに老後の世話を頼むことなんてなかった」という主張は間違いで、年老いた親の面倒は子どもが見ていた。

だが、団塊の世代までは4人兄弟の家族が多かったので、その中の1人(ほとんどの場合は長男)だけが親と同居してほとんどすべての生活の面倒を見れば、残り3人は親の世話とは無縁で快適な結婚生活を満喫出来き、人数的にそちらの方が多かったのだから、「介護の問題がなかった」と錯覚していたに過ぎない。

・たらい回す先もない

かつて、多くの人が嫁ぐにせよ、独立するにせよ、結婚後は実親の介護とは無縁で、排他的で自由な結婚生活を謳歌出来たのは、親の世話を長男に丸投げ出来たからである。

落合氏はそのような長男のことを「田舎のお兄さん」と呼んでいる。

しかし、1950年代生まれ以降は2人兄弟の家庭が増えた。

それが意味することは、男子が長男である割合や、子どもは女子しかいない人が増え、親の介護を担ってくれる「田舎のお兄さん」がいない人が圧倒的に多くなったということ。

つまり、多くの人が親の介護とは無関係ではいられないのである。

このような事態は少産少死世代が結婚適齢期を迎えた70年後半(約半世紀前)からすでに問題化していた。

にもかかわらず、幻となった「田舎のお兄さん」を当てにして、親の介護から逃げ回り、お盆と正月の年2回顔を出すだけで十分という結婚生活に憧れている人が少なくない。

だが、「少産少死世代」にとっては、多くの人にとって親の介護は避けて通れない。

兄弟間で親の介護を押し付け合うことを「たらい回し」と呼ぶが、昔はたらい回す先があっただけマシである。

今は(というか、実は50年以上前からなのだが)、兄弟が少なく、たらい回す先がない以上、同居して生活の面倒を見るにせよ、年金だけでは心許ないので仕送りするにせよ、自分たちでその責任を引き受けるしかない。

これは兄弟が少ないことのデメリットだが、これまでメリットを十分享受してきたのだから、その恩を返す意味でも親の世話をするのは当然だと言える。

もし、昭和一桁から団塊の世代までのように4人兄弟の家庭で育ったら、長男以外は親をほったらかしにすることは出来たかもしれないが、その反面、経済的に十分な愛情を与えられたかどうかを考えて見ると良い。

たとえば、子どもの時に自分専用の部屋を与えられたとか、学費を全額負担してもらえたとか。

存在しない「田舎のお兄さん」を当てにして、半世紀前に凋落が始まった家族に固執することは、一生結婚出来ないか、老いていく親を見殺しにするという破滅的な未来しか向かえないことは明らかである。

・スープの冷めない距離

もちろん、「子どもが親の介護を担う」と言っても、必要なのはかつてのような「長男とその嫁が同居して全面的に生活の面倒を見る父系家族」に回帰することではない。

そんなことになれば跡取り息子がいない家庭では、娘が親を心配して結婚できないか、親が見捨てられることになってしまう。

そもそも、長男とその嫁が親の老後を面倒見るという制度自体が、多くの兄弟がいることを前提になっており、自分の親の老後を任される「田舎のお兄さん」がいなければ安心して嫁ぐことなど出来るはずがない。

ちなみに、著書の中では、婚約者への結婚の条件として、相手が自分の親の介護を担うことはもちろんのこと、相手の親も同時に介護必要になった場合は老人ホームに入れることをヌケヌケと要求する最低の男が登場している。

こんな自己中心的で、相手の親を一方的に切り捨てようと考えている人間に「自分は親の老後を支える責任を果たしている」などとは絶対に思わせてはいけない。

そこで登場するのが「双系化」というキーワードである。

「双系」とは、「男系」でも「女性」でもなく、その両方という意味で、これを親との関係に当てはめると、どちらか一方の親との生活に入り浸るのではなく、お互いに自分の親と付かず離れずの距離感で生活することになる。

アメリカには「スープの冷めない距離」という言葉があるらしい。

日本では「別居」と聞くと「遠く離れた地に住む」という印象があるが、アメリカでは独立する時に、必ずしも遠方に引っ越すわけではなく、困った時はいつでも助けに行けるよう近居に住むことが珍しくなく、それを表す言葉が「スープの冷めない距離」なのである。

ここからは、私の個人的な意見になるが、日本でも結婚と親の介護を両立させるには、この方法しかないのではないか?

面倒事をすべて引き受けてくれる「田舎のお兄さん」や「長男の嫁」といった幽霊家族を期待することは、親子の絆を引き裂くことと同じである。

国は「地方出身者同士が東京で出会い、恋に落ち、結婚して、マイホームを購入し、親元を離れ二人で子どもを育てる」というようなロールモデルは即刻廃止して、地方在住者同士が安心して地元で暮らせる社会を目指すべきである。

もし、地方に仕事を作ることが難しいのなら、オフィスが東京にあり、在宅勤務が可能な仕事で、在宅を認めない場合は罰金を科すくらいのことをして、何とか地方への移動を促進すべきである。

そのことが、快適な暮らしと老後の安心に繋がるのだから。

逆に、仕事の都合で遠方に転勤になるケースは仕方ないにせよ、いたずらに上京を煽ることは絶対に避けなければならない。

田舎の高校生に「東京の煌びやかな生活」という誤ったイメージを流布し、多額の奨学金を借りることを唆して、借金漬けにする在京Fランク大学は貧困製造施設であるだけでなく、親子の絆を引き裂くことにも一役買っているのである。

日本の奨学金は世界に比べると貸付型の割合が高く、給付型の奨学金を拡大しようとする声も多く聞かれるが、こんな下らない大学を維持しようとするのであれば日本の未来はないだろう。

皆が大学へ行ける社会を目指したところで、全員が結婚して、マイホームを買って、子どもを大学へ入れて、悠々自適な老後を送ることが出来る社会など訪れるわけがない。

実際にそんな人々は昭和時代ですら多数派ではなかったのだから。

今必要なのは、見栄を張るためだけに、借金漬けの生活を送ることではなく、不毛な争いから降りる勇気を持って、本当に大切なものと共に生きる覚悟である。

次回へ続く

スポンサーリンク