個人主義者だからこそ絆を大切にするという考え方

前回の記事では、4年間音信不通だったアメリカ人が、あたかも先週送ったメールに返信するかのように連絡してきたことを紹介したわけだが、私は彼の行動に喜びつつも不思議な気持ちになった。

私はこれまで、進学や就職(離職)によってお互いの生活が変われば、それまで仲が良い友人だと思っていた相手が、別人のように冷たくなる様子を何度も見てきた。

決して喧嘩別れをしたわけでも、表面上は仲良くしていたものの実は相手のことが嫌いだったというわけでもない。

ただ、何を話したらいいのか分からない気まずさから、次第に疎遠となり、かつての楽しかった思い出までも消滅してしまう。

しかし、彼は違った。

あれから私なりいろいろと考えてみた。

そして、彼から直接答えを得たわけではないが、ひとつの考えにたどり着いた。

彼は血縁や地縁、法律に基づいたり、社会的に与えられた身分ではなく、あくまでも「個人」という単位で相手を判断しているのではないだろうか?

重要なのは相手がどんな地位で自分とは関係なのかという枠ではなく、相手との間にどんな繋がりがあったのかであり、たとえ、しばらくの間、連絡を絶っていても、再会する機会があれば、まるで昨日も会っていた友人と同じように、以前と同じ関係に戻ることが出来る。

これが個人主義という考え方なのではないだろうか?

・妹大好きアメリカ人の意外な反応

以前、30歳のアメリカ人男性とこんなやり取りがあった。

彼には7歳年下で大学生の妹がいて、彼はとにかく彼女のことが好きであり、私に対しても彼女の話を次から次にしてきた。

そんな彼に私はこんなことを言った。

早川:「君はとても妹さんを愛しているようだけど、もしも彼女が結婚したらどうするの?」

妹大好きアメリカ人:「え? その質問はどういう意味だい?」

早川:「日本では娘を溺愛する父親が、結婚して相手の家に嫁ぐことで、嬉しいのかショックなのかは知らないが、結婚式で大泣きしたり、結婚相手のことを頑なに受け入れないことがよくあるんだ。君の様子を見ているとそんな父親とよく似ていると思ったから」

妹大好きアメリカ人:「ごめん。質問の意味が分からない。妹が結婚して僕と妹の何が変わると言うんだい? 住む場所は変わるかもしれないけど、僕と彼女の関係や絆は何も変わらないだろう? 僕は今まで通り彼女と接すると思うけどなあ」

彼にこんなことを言われたせいで、あんな質問をした自分が恥ずかしくなったわけだが、要するに、彼にとって大切なのは、妹との間の絆や思い出といった個人と個人の間の繋がりなのであって、そこに兄弟だから、一緒に住んでいるから、誰と結婚したから、というような「どんな身分なのであるのか?」は全く関係ないのである。

そのため、結婚したり、住まいが変わったりしても、彼は今まで通り妹と接することができると確信している。

「身分よりも個人を第一に考え、その人との絆を大切にする」

これが個人主義という考えなのではないだろうか?

・「能力はあるけど個人主義者」という罵倒

私は先ほど述べたように「個人との絆を大切にする」という意味や、「どんな人と付き合うかは自分で決める」という意味で「個人主義」という言葉を使うのだが、この使い方が正しいのかは分からない。

そもそも「個人主義」という言葉の定義は「集団主義の対義語」という意味では共通の認識があるが、詳細は人によって違い、何をもって「個人主義」と呼ぶのかの定義は不明である。

だが、どうもこの社会では、「個人主義」とは「利己主義」のようなネガティブな意味で使われていることが多い気がする。

これは、知人が就職したばかりの頃の話だが、新人研修で社畜教に洗脳されたのか、やたらと「個人主義」という言葉を使っていたことがある。

たとえば、一緒にスポーツ中継を見ていた時に、ホームランを狙う野球選手や、積極的にシュートを打つサッカー選手のことを「あの選手は能力があるけど個人主義の考えが強すぎるんだよなあ」と言っていた。

おそらく彼の頭にある「個人主義」という概念は「チームプレーよりも個人プレーを重視する選手」を軽蔑する時に使う言葉なのである。

…って、おかしいでしょう!?

そもそも、彼らのようなスラッガーやストライカーはホームランを打ったり、ゴールを決めることが「チームプレー」ではないのか?

「個人主義=利己主義」という前提ですら、その批判は成り立っていない気がするが…

・美しい世界とは?

話を戻そう。

先ほど紹介した知人のように、この社会では「個人主義=自分勝手な人」という解釈で、とにかく集団が先にあり、個人は二の次だと考えられていることが多い。

しかし、それが「金の切れ目が縁の切れ目」であるかのように、集団を離れた後に個人として付き合うことができないのは何と虚しいことだろうか。

以前、ネットで知り合った台湾人が来日する際に、私の友人と会うことを希望したことがあったが、私がその要求に難色を示すとこんなことを言ってきた。

「なんで『この友達は会社の人』『この友達は学校の人』というように、友達を作る時も形にこだわって、グループが違う人同士は、お互いに会う前から避けるの?」

「一緒にいることが楽しいから『友達』じゃないの?」

彼女はそう言って、友人関係を社会的な枠でカテゴライズすることにえらく嫌悪感を示した。

彼女はその1年後に結婚したわけだが、相手は昔から付き合いのある男友達で、「夫と妻」という関係ではなく、(彼との間だけでなく)お互いに今までの人間関係を尊重できると確信できた人だった。(彼女の結婚話に関する記事はこちら

経済的なつながりや、制度としてつながりではなく、相手との絆に基づいてつながることは当たり前のような気がするが、そんなことができたらどんなに素晴らしいことだろうか。

以前、「結婚と家族のこれから」という本を紹介したが、その中で(あくまでも想像上の話だが)所得に関係なく、純粋に「好き」という気持ちのみで結婚することができる世界を「美しい世界」と呼んでいた。(ちなみに男女に関係なく所得の高い人が、低い相手と結婚して経済的に支えることは「やさしい世界」と呼ぶらしい)

友人とのつながりも同じように、経済的な縁や制度の縁ではなく、純粋に相手との個人的な絆でつながれる世界が「美しい世界」だと私は思う。