「家族の絆」を求めるほど家族の絆が破壊される不思議

半月前に書いた記事で「家族」という概念に異常にこだわる人は「器(入れ物)」が重要なのであって、人を大切にしているわけではないと書いたが、今日はその考えについて詳しく話させてもらいたい。

・日本人は家族を大切にしない?

以前日本で働いた経験を持つフィリピン人がこんなことを言っていた。

「日本人が家族にとても冷たかったので驚いた」

それを聞いた私は、おそらく彼女は仕事に没頭して家族をほったらかしにしている男性会社員の話をしているのだろうと思った。

しかし、どうもそうではないらしい。

彼女は同じ職場で働いていた男性を見てそう感じたのだが、彼女の話を聞く限り、少なくとも私には、彼が家族を大切にしているように思えた。

彼はよく定時で退社し、家族と一緒に旅行にも行くことも多かったらしい。

彼はとても家族思いの人であるように見えるが、なぜ彼女は彼が家族に冷たいと感じたのだろうか?

その理由は、彼が地元で一人暮らしをしている高齢の母親に1年以上会っておらず、心配すらしていなかったからのようである。

母親も妻や子どもと同じ家族であるはずなのに、なぜここまで別の扱いができるのだろうか?

彼女はその区別に驚いたという。

しかし、同じ日本で暮らす者としては、彼の行動は理解できなくはない。

たしかに、この社会では妻(夫)や子どものことは大切にしている人であっても、実家の両親に対しては全く別人のように冷たくなる人が珍しくない。

また、彼らが両親と不仲なのかと言われればそうでもない。

どちらかというと無関心に近い。

「家族だけは絶対に自分の味方だ!!」と思っていても、面倒になったら自分の親であっても簡単に切り捨てようとする子どもは案外多い。(しかも本人は罪悪感など全く持っていないものである)

前回の記事で、「子どもを産まない奴は、年老いて困っても誰にも頼らず一人で寂しく死ね!!」と主張している人間がいかに的外れであるのかを述べたが、彼らをコケにできる根拠がまた一つ増えた。

・そもそも「家族」とは誰を意味するのか?

彼女の言う通り「日本人は家族に冷たい」という前に確認しておきたいことが一つある。

「そもそも『家族』とはどのような人を指すのだろうか?」

フィリピンに限らず、新興国の人たちは「家族を大切にする」と言われている。

しかし、その「家族」とは親兄弟や夫婦にとどまらず、親戚一同、また戸籍や血縁の関係など全くなく、なぜか居ついている居候、さらに頻繁に家を訪れる友達も含まれていたりする。

そして、「家族が困っていたら助けるのは当たり前」という言葉の「家族」とはこれら幅広い人たちが含まれている。

そのため、彼らの使う「家族」という言葉は私たちの使うそれとは違い「仲間」のような意味であると思われる。

「たとえ、血のつながりがなくても、法律上で家族の関係になくても、仲間が困ったら助けるのは当たり前」

彼らはそのように考えているのだろう。

一方で日本人にとっての「家族」とはあくまでも「世帯」のメンバーに過ぎず、たとえ親兄弟のような血縁者であっても、一緒に住んでいなければ、助けるべき「家族」とはみなされないことが多い。

ちなみに、親や兄弟のような自分が生まれ育った家族のことは「定位家族」、自分で選んだ相手と結婚して築く家庭のことは「生殖家族」と呼ぶらしい。

一口に「家族」と言っても、我々日本人にとって、この2つには必ずしもイコールではない。

だから、「定位家族」も「大切な家族」と認識しているフィリピン人の彼女の目には、「生殖家族」のみを「守るべき家族」と思っている日本人は「家族に冷たい」と映るのだろう。

・「立派な家族」を目指すことが家族を殺す

それを考えると、日本人は口では「家族の大切さ」を口説きながら、家族的な扶助とはかなり限定的な範囲にしか適用されず、同じ家に住んでいなければ、たとえ血縁者であっても、苦楽を共にした間柄であっても、どうでもいい過去の人に成り下がってしまう。

「去る者日々に疎し」とはこのことである。

だが、「フィリピン人が家族思いで、日本人は家族を大切にしない」と結論付ける前に考えてみたいことがある。

「日本人は本当に家族に冷たいのだろうか?」

私はそうは思わない。

むしろ、政府にしても、世論にしても、やたらと「家族」の大切さを主張して、家族をがんじがらめにした結果、家族を救うことができなくなっているのではないかと思う。

介護疲れによる親子心中のケースを想像してもらいたい。

親の介護を担っていた子どもは多くが未婚で誰にも相談できず死を選ぶのだが、実は彼ら(彼女ら)には兄弟がいて、一度は相談していることが珍しくない。

しかし、別居してそれぞれの家庭を持っている兄弟は「自分にも家庭があって大変だから、親の世話をする余裕はない」と言って援助を拒否することが多い。

このように親の介護を断っているシーンを見ると、彼らは自分の親を見捨てる血も涙もない薄情な人のように思えるが、「自分たちも余裕がない」と訴える彼らの主張も分かる。

この社会は何でもかんでも、「家族の責任だ!! 親の責任だ!!」と言って子育ての負担を家族に押し付けている。

たとえば、父親は生活費やバカ高い子どもの学費まですべてを稼がなくてはならない経済的責任を押し付けられ、母親はすべての家事や子どものしつけなど異常なまでのきめ細かい子育ての責任をすべて押し付けられている。

言い換えれば、他人の助けも、公的な支援も受けずに、自分たちだけで生活を成り立たせる「自立した家庭」であることを求められる。

そして、それを「家族だから当然」だと思っている人間もいる。

しかし、それがあまりにも負担となり、実の親を助ける余裕すら奪われているのではないだろうか?

もしも、普通の生活を送るための費用がここまで高額でなければ、親への仕送りする余裕が生まれ、経済的に援助することができたかもしれない。

もしも、親(もっぱら母親だが)がすべての家事と育児を担うのではなく、家政婦を雇ったり、家事要員の居候に任せることで、自分の時間を持つことができたら、もっと実家の家族と一緒に過ごす時間を作ることができたかもしれない。

「自立した立派な家族」であることを諦めたら、救える命もあったのかもしれない。

・守るべきは「人」であって「器」ではない

自立なんかしなくてもいい。

立派な家族であることをやめよう。

画一的な家族ではなく、各々が自分たちに合った家族の形式を選択すればいいのではないか?

と私は思うのだが、こんなことを言ったら、

「それでは家族の絆が破壊される!!」

と頑なに反対する人たちがいる。

しかし、そもそも「絆」とは何だろうか?

「絆」とは個人と個人の間に存在して、それは各々の経験を通して蓄積され、お互いに助け合うべき仲間だと思える関係のことだと私は思う。

あくまでも、人(個人)がベースにあるものであり、家族とか、学校(学級)とか、会社とかは、それ自体に価値があるわけではなく、ただの入れ物(器)に過ぎない。

極端な言い方をすれば、たとえ血のつながりがなくても、同じ会社で働いていなくても、「この人は自分の仲間だ」と思えるものが絆である。

しかし、声高に「絆!! 絆!!」と叫んでいる人は、家族や会社というような「器」が先にあって、そこに人を縛るためのしがらみを「絆」と考えているように見える。

というよりも、彼らには「絆」と呼べるものがない寂しい人たちだからこそ、器の大切さを強調するのではないか?

余談だが、私はこれまでネットの中で、リアルの世界に友達がいない人が「友達が欲しい!!」と言って、寂しさを紛らわせるために即レスしたり、意味のないメールをダラダラと送りつけてくる様子を何度も目にしてきたが、それと似ている気がする。

彼らも自分の味方でいてくれる「友達」という器を求めているわけだが、目的と手段を取り違えており、「仲良くしているから友達になる」のではなく、「友達だから仲良くできる」と思い込んでいる。

以前、台湾人から「何で日本人は『この人は学校の友達』、『この人は趣味の友達」というように友達をカテゴライズするの?」と疑問を投げかけられたことがある。

彼女の言う通り、私たちは「家族」「同僚」「同級生」「恋人」というように付き合う相手を区別して自分もその役割に応じて適切に振る舞うことを意識しすぎているのかもしれない。

しかし、その役割にこだわった結果、これまで自分の味方でいてくれた人を助けることができないのであれば、何のための絆なのだろうと思う。