「昭和時代はもっと楽に人生を送ることができたのに!!」という幻想②(女は誰でも専業主婦になれた編)

前回は「昔は今よりも正社員の仕事が多かったから仕事に苦労することはなかった。自分もそんな時代に生まれたらなあ~」と嘆いている人は物事をあまりにも都合よく考え過ぎだということを指摘した。

たしかに、昔は今よりも楽に就職できたかもしれないが、仕事はとてつもなく大変なものだった。

それを考えると、今よりも就職が簡単だったという理由から「自分も昭和時代に行きたかった・・・」と願う人は考えを改めるかもしれないが、私が曲者だと思うのは

「昔は誰でも結婚して専業主婦になることができたのに!!」

と考えている人たちである。

なるほど、昔は今よりも労働がつらかったが、その負担を背負うのはあくまでも男性労働者だけの話である。

簡単に結婚することができる

=大変な労働は夫に任せて、自分は専業主婦として自由と安定を手にすることができる

=「昭和は素晴らしい時代だった」

という理屈である。

しかし、これも前回の男性正社員の話と同じく

「簡単に結婚できる」=「簡単に大企業務めの正社員と結婚できる」

と考えているのではないか。

地方の中小企業に勤める正社員の妻になっても、夫の会社の福利厚生など期待できないため、子どもが小学校に入る頃にはパートとして働きに出なくては家計が成り立たないのではないか。

というわけで、

安定した人生のために、絶対に大企業の正社員と結婚したい!!」

と思っていたのは、現代の女性と同じだろうが、「自分も昭和に生きることができればなあ~」と嘆いている人には残念なお知らせがあります。

昭和時代は女性の移動の自由が著しく低い時代でした。

もちろん、江戸時代のように、制度として移動の自由が制限されていたわけではない。

社会通念として、女性の自立が認められなかったわけだが、自立ができないということは「結婚して夫に養われる」ということに限らない。

経済的に自立できないわけだから、結婚するまでは親から自立することも困難だった。

たとえば、昭和の中頃まで女性の大学進学率は10%以下だったから、高校卒業後に晴れて親元を離れる機会は乏しかったし、商業高校や短大を卒業すればそれなりに名の通った会社の事務員として就職することができたたかもしれないけれど、当時は多くの企業が女性を採用する時に

“実家から通勤ができること”

を条件としていたから、学校卒業後も家を出て自由に生活することはできなかった。

・限られた世界の中で結婚相手を選ばなくてはならないということ

さて、そんな中で「結婚しなくては経済的に困窮する」という状況になるとどんなことになるのか?

当然、身近で限定された世界の中で結婚相手を探すことになるため、自分と同じ地域に住んでいて、自分と同じ水準の学歴、年齢、仕事の相手と結婚することになる。

そんな中で「自分とは全く別の世界に住んでいる一流企業務めの男性と結婚する」なんてことができるのは奇跡である。

単純に考えてみよう。

小学生の時のクラスを想像してみてほしい。

「クラスの絆が何たら~」とかいう人もいるが、そこに集まっている人たちは心と心が通い合う仲間でも何でもなく、「たまたま同じ地域に住んでいて、ある年の42日から翌年の41日に生まれた」という同じ属性によってそこに集められている。

「移動の自由はないが、結婚はできる」というのは、このように自分と同じ属性の相手と結婚するということである。

そのため、「簡単に結婚できる」ことは事実かもしれないが、当然、相手は今の自分と同じ世界に生きている相手に限られることになる。

大人になった今、改めて振り返ってみて、かつての小学校の同級生に「この人と結婚したい!!」と思うような人はいただろうか?

そんな小さな世界でしか結婚相手を見つけることができないことが幸せにつながるのだろうか?

まあ、ずっとその世界にだけ住んでいて、他の世界を知らないのなら、それが当たり前だから、不幸だとは思うことはないだろうけど…

ちなみに、「昔は誰でも結婚できた」というのは女性だけでなく、男性でも同じことである。

だから、家族に冷たいどころか、借金持ち、ギャンブル狂い、DV男でも結婚することはできたわけである。

「最近の若い男性は優しくて家族思いの人が増えた」と言う人がいるが、これは「今の若い男性が昔の人よりも優しくなった」と言うよりも、先ほど挙げたようなろくでもない男が結婚することができなくなったから、そのような優しい人でないと結婚相手として選ばれなくなってしまっただけなのだと思う。

そのことを考えると。少なくとも結婚に関しては、たとえ自分が選ばれないリスクはあるにせよ、現代のように広い世界で自由に結婚相手を選択できる方がはるかにマシではないのか?

「自由の尊さ」とは家族や職場の人たちの支えと同じように失ってからその大切さに気付くものなのかもしれない。

もちろん、「女性が輝く社会」というような胡散臭いフレーズで、職場ではかつての男性正社員のように働き、家ではかつての専業主婦のように家事と育児をこなすことを要求する社会はひどいものだと思う。

しかし、働くことが辛いからと言って、その苦痛から逃れるために「誰でも簡単に結婚できて、専業主婦として幸せになれたかつての日本」というようなユートピア(もちろん、これは妄想)に救いを求めても、決して人生が好転することはないだろう。

・「伝統」という言葉は安易に使ってはいけない

前回は仕事、今回は家庭をテーマにして「昭和という時代はすべての人たちが幸せだった」という考えがいかに浅はかであるかを紹介した。

「伝統だ!! 伝統だ!!」と軽々しく口にする人は、自分がいかに現代社会の恩恵を受けている人間であるかという自覚が全くない。

たとえば、長年外国の生活に憧れており、口を開ければ

「海外は素晴らしい!!」

「日本はダメだ!!」

と海外を称賛し日本を貶める発言を繰り返していた人が、実際にその国で暮らしてみると、「思っていたのと違う…」と幻滅して、自分がいかに日本という社会の恩恵を受けていた人間であるのかを身を持って体験することは有り得る。

しかし、過去の時代に幻想を抱いている人間は、タイムマシンが発明されない限り、このような挫折を経験することはない。

そのため、ひたすら「伝統」という名の妄想を肥大化させて、すべての不満の原因は現代社会の負の側面にあると容易な結論に縋ってしまう。

「昭和は素晴らしい!!」

「昔の日本を取り戻せ!!」

と強固に主張している人間は昭和型の社会を取り戻すために、情報化社会の申し子のような某外資系流通業者を叩きだす覚悟はあるのだろうか?

マニュアル化された大量の非正規労働者で経営を成り立たせている大型販売店を排して、規制に守られてろくに商売の努力もしない自営業者だらけの商店街を取り戻す覚悟はあるのだろうか?

その覚悟がないのなら、「伝統を取り戻す!!」などと安易に口にすべきではない。