
数年前、職場に地方出身の新入社員が配属された際に、東京での生活が初めてだという彼に対して、先輩たちは親切心からか、「治安が悪くて近づかない方がいい地域」について話をしていた。
ある先輩は、その話題について「山谷」の名前を挙げた。
理由はドヤ街と呼ばれる簡易宿泊所に日雇い労働者が多く集まり、「どんなことをするか分からない得体のしれない連中」(こういう人たちのことを言っているのだろうか?)に遭遇する危険があるからのよう。
私は山谷へ行ったことがないのだが、それを聞いて「なるほど~」と思った。
しかし、彼自身はその場所に行った経験があるわけではないのだという。
そのやり取りを聞きながら、私はある違和感を覚えた。
「なぜ、自分が実際に見たこともない場所について、ここまで断定的に『危険だ』と言い切れるのだろうか?」
・身近な場所の危険には気付かない

私は彼らの会話に参加していなかったが、もしも「東京で最も危険な場所はどこか?」と聞かれたら、実体験を基に迷うことなくこの場所を挙げる。
それは新宿駅である。
この回答を聞いて、驚く人もいるかもしれない。
決して新宿駅に犯罪者が跋扈しているわけでも、犯罪行為が横行しているわけでもなく、怖いのはいわゆる「普通の人」である。
通勤で新宿駅を利用していたことがあるのだが、とにかく混雑がひどくて、大変危険なのだ。
特に山手線と中央・総武線のホームは乗り換えには便利であるものの、違う方面へ向かう列車が同時に入線することが多く、順番待ちしている人と両列車から降りる人が一斉にホーム上で交わる瞬間がある。
遅延等で電車を待っている人が多い時は身動きが全く取れない。
ここまで極端な混雑ばかりではないが、改札ゲートや乗車位置の列に並ばず割り込んだり、満員電車に無理やり乗り込むために周囲の人を押し退けたり、エスカレーターを降りた場所で立ち止まったり、周囲を気にせず歩きスマホをしたりと、民度が低い大バカ者たちとは毎日のように遭遇していた。
私自身も後ろから突き飛ばされたり、混雑で行きたい方向へ進めず苛立った奴に八つ当たりされた経験が一度や二度ではない。
これは決して大げさな表現ではなく、実際に日常的に起こり得るリスクである。
私は常々彼らを「反社会的」だと指摘しているが、世間では決して「危険人物」として認識されるような存在ではない。
どこにでもいる、「ごく普通の人」とみなされている。
だが、その「普通の人」の何気ない行動が、結果として重大な事故の引き金になり得る。
私はフィリピンのマニラに留学した経験があり、その話をすると、「マニラは治安が悪い」というイメージを持っているのか、「よくそんな怖い場所で暮らせたね!?」と驚かれることも少ないが、はっきり言って、マニラの街を歩くよりも新宿駅を歩く方がよっぽど怖い。
ここで改めて考えたいのは、「危険とは何か」という点である。
多くの人は危険を、犯罪や暴力といった分かりやすい形で捉える。
しかし、現実には、それ以上に身近で頻繁に発生するリスクが存在する。
にもかかわらず、人々の関心は往々にして「遠くの危険」に向かう。
行ったことのない場所、接点のない人々、あるいは海外の都市など、自分とは距離のある対象に対しては、極めて敏感に反応する。
そして、時には、強迫的なまでに「ゼロリスク」を求める。
一方で、自分が日常的に関わっている環境に潜むリスクについては、驚くほど無頓着である。
また、身近な場所のリスクは、遠い場所のリスクとは違い、自分が加害者になる可能性とも向き合わなければならない。
新宿駅の混雑やマナー違反の加害者はごく普通の人であり、これらをリスクと認識すると、自分が一方的に被害者となるだけでなく、加害者となる可能性も受け入れなければならない。
一方で、自分とは無縁の世界に住んでいる、全く異なる属性の人間によってもたらされるリスクは、完全な他人事なので、思う存分、被害者としての立場を強調することが出来る。
だからこそ、身近な世界のリスクは見て見ぬふりで、遠い場所のリスクばかり強調したくなるのだ。
こうして見ると、何とも浅ましい人間の弱さや醜さを感じる。
ちなみに、私は東京、渋谷、池袋が最寄り駅となる会社で働いた経験がなく、実体験から新宿と答えたのだが、もしかしたら、それらの駅の方が危険という可能性もある。
・遠回しに「使うな!」って言いたいの?

このような現象は、単なる偶然ではない。
人間の認知の仕組みに深く根ざしている。
人は「よく分からないもの」に対して強い不安を感じる。
情報が不足している分、想像が膨らみ、最悪の事態を思い描きやすい。
その結果、未知のリスクは過大評価される。
一方で、日常的に接しているものについては、慣れによって危険が見えにくくなる。
「いつも通りだから大丈夫だろう」という感覚が、無意識のうちにリスクを過小評価させる。
さらに厄介なのは、人は自分にとって都合の悪いリスクを直視しにくいという点である。
自分が当事者になる可能性が高いもの、あるいは自分の選択や価値観を揺るがしかねないものについては、意識的あるいは無意識的に目を逸らす傾向がある。
この歪みは、現代のリスク教育にもはっきりと表れている。
例えば、先日、ある通信会社が中学生向けにSNS使用のリスクに関する授業を行ったというニュースをテレビで見た。
その内容は「何気なくSNSに上げた自撮り写真に写っているマンホールの蓋や瞳に反射しているマンションから住所が特定される恐れがある」というものだった。
おそらく、そのネット版だと思われる記事のURLを貼っておく。(広告がしつこいから気を付けて)
“盛れ”ている写真に“漏れ”が…SNSの危険性をリアルに体験 NTTドコモが「ばくモレ授業」|FNNプライムオンライン
確かにそれは事実であり、注意喚起としては有効かもしれないが、そんな細かいことを言い出したらキリがなく、そのような極めて特殊なケースを強調することが、本当に適切なリスク教育と言えるだろうか。
この授業を取り入れたり、感心している学校や親は、おそらく自身がSNSを使っておらず、「よく分からないけど、危ないから子どもたちには使わないでほしい!!」と願っているように感じる。
「徹底的にリスクを排除すべきだ」という方向に議論が傾くと、現実とのバランスを欠いた教育になりかねない。
しかも皮肉なことに、こうした教育を支持する人々の多くは、別の重要なリスクについてはほとんど触れようとしない。
・子どもの人生のリスクよりも自分の願望が大事

くだんのニュースを見た意地悪な私は「子どもたちにリスク教育をするのなら、ぜひともこのリスクを教えてほしい」と思うものが3つ浮かんだ。
それをひとつずつ説明したい。
・①:結婚
今は私が学生の頃よりも多様性が認められる時代になったものの、道徳や家庭科の授業で「家族を持つことがいかに素晴らしいか」といったメッセージが繰り返し伝えられてきた人は少なくないだろう。
学校に限らず、家庭教育でも
「結婚はいいよ~♪」
「まともな社会人はみんな結婚するものだ!!」
と吹聴する者は多いと思われる。
だが、当然、結婚にはリスクが伴う。
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自分はキャリアを築きたいけど、家庭の都合で仕事を辞めないといけないこともある。
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長年、家族を支えるために一生懸命働いても、定年後に「あなたは家庭のことを一切顧みなかったから」と離婚を切り出されて、財産分与まで要求されることもある。
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子どもに愛情を注いでも望んだ通り成長せず、むしろ悪い道に進んで、自分たちがその責任を負わされることもある。
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終わらない婚活地獄のように、結婚という制度に固執するが故に、素晴らしい人との出会いを失うこともある。
あくまでも「~こともある」という程度ものであり、「結婚」とイコールになるものではなく、「不安を煽るな!!」と感じる人もいるかもしれないが、そもそもリスクとはそのようなものである。
結婚の良いところをたくさん伝えておきながら、リスクには一切触れないことは正しい教育と言えるのか?
・②:大企業への就職
こちらも結婚同様に、社会的には「望ましい選択」とされ、多くの場面で肯定的に語られる。
大手は、中小よりも給与が高く、福利厚生が充実して、法令順守が徹底されており、社会的な信用もあるので、多くの大人が「就職するならとにかく大企業だ!!」と学生に説いている。
しかし、大企業は決して楽園ではない。
世間から羨まれても、当然多くのリスクも存在する。
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規模が大きく業務が細分化されているため、希望の職種に就けるとは限らない。
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人事異動で希望しない遠方への転勤を命じられる可能性がある。
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入退社が少なく、社内政治に気を遣わないといけない。
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パワハラや解雇には厳しいため、平社員として働く時は安心だが、管理職になると、あまりに不誠実で責任感がない部下でも、厳しく注意したり、退職を勧告することができない。
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下請けや非正規を徹底的に搾取する様子は、一見すると勝ち組の特権を謳歌しているように見えるが、裏を返すと、このように冷血に徹しなければ自分の立場を守れないことを意味し、真面目な人ほど、自分の所業に対して、良心の呵責、罪悪感、恨みを買って報復を受けるかもという恐怖に苛まれる。
こうしてみるとかなりストレスフルで精神的に病みそうな環境に見える。
実際に私は日本でも有数の大企業で、本社から出向していた部長の隣の席で仕事をしていた経験があるのだが、彼は度々、規定を無視した本社からの突然の要求や、事あるごとに家族を理由に欠勤する部下、「できません。わかりません」を繰り返して全く仕事を覚える気がない新入社員、本社の横暴や正社員の無責任さの尻拭いをさせられることにカンカンになって、退職を希望する派遣社員など多くの人の板挟みになっていた。
その様子を間近で見ていた私は「大企業の管理職って、なんて不自由なんだろう…」と同情したが、尊敬もしていた。
それは決して、「大企業の部長」という肩書を持っているからではなく、「自分には到底できない仕事をやっている」と感じたからである。
私が彼の立場なら、
「本社なんだから、ちゃんとルールは守って模範を示せ!!」
「やる気がないなら、さっさと辞めろ!!」
とブチギレているだろう。
年収1億でもこんな環境には耐えられない。
「自分も大企業に入りた~い」と言っている人は、このようなリスクを承知しているのか?
・③:奨学金
2010年代から、奨学金を返せない人が話題になることが増えた。
2023年末で、奨学金の全返還者数およそ49万人のうち、3ヶ月以上延滞している人は約13万人だという。
奨学金を返せない場合はどうなる? 滞納リスクと救済制度とは | 債務整理のとびら
返済できない理由で最も多いのは「本人の低所得」であり、およそ62%にも及ぶ。
今でこそ返済できない人の割合は2.7%程度だが、救済制度が充実する前の2012年は倍以上の5.8%だったとのこと。
返済が滞った場合は、延滞金加算と催促連絡→保証人へ連絡→信用情報のブラックリスト入り→債権回収会社から取り立て→9ヶ月後には一括返済の支払督促→無視すると財産差し押さえなど、どんどん状況は悪化する。
奨学金を借りることには、このように大きなリスクが存在する。
そもそも、「学卒後に安定した生活を営みながら、毎月数万円の奨学金を返済する」という生活は、給与以外の福利厚生が充実していて、年2回の定期ボーナスが支給されることが確実な大企業勤務か、実家暮らしで生活費を節約することで返済金を捻出できる生活だから可能なことである。
その見込みや自信がないのであれば、借金を抱えてまで進学する価値などあるのだろうか?
ピュアな教育系の人たちは「教育は神聖なものだ」と信じて疑わず、貧乏人は借金しないと大学へ行けないことに憤慨している。
「政治が悪い!! 社会が悪い!!」と批判するだけであれば結構であるが、現実と願望の区別が付かないのか、返せる見込みがない学生でも、踏み倒す前提で借金することを推奨しているように感じる。
もちろん、「教育のための借金は特別だから免罪され、返さなくても良い」というのは、彼らの頭の中だけの理屈であり、返済出来なければ、社会では債務不履行者としかみなされない。
念のために言っておくが、私は決して「結婚するな!」、「大企業に就職するな!」、「奨学金を借りるな!!」と言っているのではない。
「メリットの裏にはデメリットやリスクがあるのだから、それもしっかりと教えるべきだ」と言っているのだ。
こんな当たり前のことを教えるだけである。
これらのリスクは、SNSの「写真から住所が特定される」といった話よりも、はるかに現実的で、しかも多くの人に関係するものである。
先の記事では、SNSがきっかけとなる犯罪に巻き込まれる中高生は毎年約1500人だが、奨学金の返済が滞る人は約13万人、離婚するカップルは1/3組にも及ぶ。
それにもかかわらず、SNS使用のゼロリスク教育を歓迎する人たちは、このようなリスク教育は拒否するだろう。
なぜか。
それは、彼らにこんなエゴがあるからである。
「自分の人生のリスクのことなんか考えたくない!!」
「大企業に就職して、結婚することが唯一絶対の正しくて安定した人生なのだから、子どもたちには、その道へ進むことに疑いを持ってほしくない!!」
人は自分の選択を正当化したい生き物である。
結婚し、企業に勤めるという人生を歩んできた人ほど、その選択に潜むリスクを強調することに抵抗を感じる。
それは自分自身の人生を否定することにつながりかねないから。
その上、自分がリスクを与える側であることも認識しなければならない。
「自分が長年家族のために働いた配偶者に離婚を突き付ける側になる」
「自分が他者に無茶な要求を押し付ける側になる」
「子どもが奨学金の返済に苦しむ根本的な原因は自分たちが学費を払えないこと」
そんな事実は断じて認めたくないのだろう。
その結果、「触れない方がよいリスク」として扱われ、教育の場から排除されてしまう。
・本当のリスクとは?

ここまで見てきたように、私たちはリスクそのものよりも、「リスクの見え方」に大きく左右されている。
未知で自分とは無関係に見えるものに対しては過剰に反応し、ゼロリスクを求める。
一方で、自分が当事者になる可能性が高いものや、社会的に推奨されている選択に伴うリスクについては、驚くほど鈍感である。
この状態こそが、実は最も危険なのではないだろうか?
リスクは完全に排除できるものではない。
重要なのは、それを正しく認識し、適切に向き合うことである。
しかし、認識そのものが歪んでいれば、どれだけ対策を講じても本質的な問題は解決しない。
本当に必要なのは、「危険を避けるための知識」だけではない。
むしろ、「自分がどのように危険を見ているのか」を自覚する力である。
どのリスクを過大評価し、どのリスクを見過ごしているのか。
そのバランスを意識することが、現代におけるリスク管理の出発点になるはずだ。
未知のものに対する警戒心は決して無駄ではない。
しかし、それ以上に警戒すべきは、自分の内側にある認知の歪みである。
遠くの危険ばかりを恐れ、足元の危険に気づかない。その状態を放置することこそが、最も大きなリスクなのではないだろうか。









