ブラック企業や格差拡大に反対ている人が、それを生んでいるものを絶賛している謎

先月末、勤務先の同部屋で働いていた同僚が退職した。

彼が転職活動中をしていた2月中頃、彼から非常に印象に残る話を聞いた。

彼はあるIT企業の派遣社員として面接を受け、その企業に採用されれば、同社の顧客である大手企業に常駐し、顧客からの依頼業務に対応するという働き方になる予定だったという。

仕事内容や勤務地、勤務時間は本人の希望に合致しており、一見すると魅力的な案件だった。

しかし、彼は最終的にその内定を辞退した。

理由はシンプルだが重い。

残業時間が毎月40100時間に及び、その残業が「繁忙期が決まっている」わけではなく、突発的に発生するというのだ。

しかも、依頼をするのは同社の人間ではなく、常駐先の顧客であるため、彼らの勤務時間などお構いなしに、退勤間際になって「今日中にお願いします」と仕事を振られることも珍しくなく、現場のエンジニアは疲弊しきっている。

実際、面接を担当した人物自身が「かなりハードな環境です」と語り、その表情からも現場の厳しさが伝わってきたらしい。

彼が辞退を決めたのは当然の判断だろう。

彼は面接を通して「なんてひどい環境なんだ…」と戦慄したが、自身が置かれるかもしれない労働環境以外の違和感も生まれた。

というのも、下請け企業をここまで徹底的に追い詰める極悪非道のような顧客は、世間では一流企業と崇められ、就職活動を行う学生の人気企業ランキングの上位に顔を出すことも多い会社だったからである。

そこで、彼はこんなことが頭に浮かんだ。

「その大手企業が働きやすい一流企業と言われているのは、下請けを徹底的にコキ使っているからではないか?」

そこは世間的には福利厚生が充実し、就職人気も高い企業である。

だが、その裏側では外部の人材に負担を押し付けることで、自社の社員の働きやすさを維持しているのではないか?

彼の仮説を聞いた私は大いに共感した。

・いじめがつらいなら喧嘩で強くなればいいという発想

彼の話を聞いた私が考えたのが、日本型雇用とブラック企業の関係である。

高度経済成長期に、日本の会社の特徴として「三種の神器」と呼ばれたものがあった。

「終身雇用・年功序列・企業内組合」である。

ブラック企業と日本型雇用の関係について語られる際、よく引き合いに出されるのは「年功序列」と「終身雇用」である。

年功賃金により長く勤めなければ報われず、終身雇用前提のため転職も難しく、劣悪な環境から抜け出せない。

これは大企業、または大企業同士の関係においては割と当てはまっていると思うし、非常に分かりやすい理屈だ。

しかし、今回の元同僚の話を考えると、中小のブラック企業については、あまり語られることがない「企業別労働組合」がキーとなっている気がする。

日本の労働組合の多くは企業ごとに組織されており、その企業の正社員の利益を守ることを目的としている。

そのため、同じ職場で働いていても、派遣社員や下請け企業の従業員はその保護の対象外となる。

日本で働いているとそれが当たり前に感じるが、世界的に見るとこのような労働組合の形態は決して「当たり前」の形ではない。

詳細は各国によって異なるが、労働組合が企業毎ではなく、産業別に構成されていることが多い。

今回のケースに例えると、世間では「一流企業」ともてはやされている大企業が、エンジニアを奴隷のようにコキ使っていても、エンジニアの労働組合が「そんな会社では我々の仲間を働かせられません!」と抗議して引き揚げさせるので、企業は彼らを好き勝手に使うことが出来ない。

これはこの会社だけでなく、他の企業においても同様に行われる。

こうすることで、同一労働同一賃金を実現できて、エンジニアという職種全体の労働条件を底上げし、過度な残業や不安定な契約に対して業界全体で歯止めをかけることができる。

しかし、企業ごとに分断された労働者は統一した交渉力を持てない。

顧客に抗議しても、「ウチの言うことが聞けないなら、他社に頼むだけだから」と言われ、下請け企業は大企業の言いなりとなり、従業員をブラックな労働条件で酷使することになる。

言い換えれば、企業内労働組合によって保障される大企業の労働者の安定のために、労働組合がない中小企業の従業員が犠牲になっているのだ。

にもかかわらず、中小企業のブラックな労働環境について語られる際には、

「変な会社だ!!」

「人権意識が低いワンマン社長が法律を守らないだけ!!」

といった個別の問題に矮小化されることが多い。

そして最終的には「そんな会社は辞めて大企業へ行けばいい」という結論に落ち着く。

しかし、この考え方は本当に問題の解決になっているのだろうか。

むしろ、「いじめられているのなら身体を鍛えて、喧嘩が強くなって、いじめる側になればいい」という暴論に等しい。

個人の努力で環境を乗り越えることを求めるだけで、いじめそのものの構造には手をつけない。

それでは問題はなくならず、ただ別の場所に移るだけである。

誰かが抜けた穴には、また別の誰かが入る。

そして同じ構造が繰り返される。

これは解決ではなく、問題の再生産に他ならない。

・世界に誇る日本の製造業のカラクリ

今回の舞台となったのはITの分野である。

IT業界については割と歴史が浅いため、「社会や企業にはエンジニアを保護するためのルールや慣例が成熟していない」と思う人もいるかもしれないが、「下請けに負担を押し付けて、大企業は富を独占」という構図は、「日本の経済成長支えたお家芸」と言われることが多い製造業でも長年存在してきた。

たとえば、この記事で取り上げたことがある小熊英二氏の「日本社会の仕組み」によると、1980年代後半はアメリカのGM社が従業員約80万人で年間約500万台の車を製造していたのに対して、トヨタはわずか約7万人で年間約400万台も生産していたという。

一見すると、愛国ポルノに溺れた者が「世界を圧倒する効率的で勤勉な日本の生産方式!」などと言って絶頂に達しそうな数字である。

しかし、これには理由がある。

部品の自社生産率はGMが約70%に対して、トヨタをはじめとする日本の自動車メーカーは約2030%、トヨタの部品を製造する下請けグループは270社にも及んでいた。

当然、年功序列や終身雇用、企業内労働組合のような日本型雇用の恩恵を受けられるのは、親会社だけで、下請けはそのような制度の保護の対象ではなく、過酷な労働を強いらる。

トヨタの季節工をやっていたルポライターの鎌田慧氏の証言では、トヨタのカンバン方式では「必要な時に、必要な部品を、必要な時間に納入する」ため、夜中の2時過ぎに下請けの労働者が大きい箱を運んできて、コンベアに部品を補給していたため、全然ロスがなくまさに「ジャスト・イン・タイム」だったという。

格差社会という不幸 – 春秋社 ―考える愉しさを、いつまでも

もしも、日本の労働組合が企業別ではなく、産業別であれば、このように大量の下請け会社が生まれることも、大企業と中小企業の労働者の待遇面の格差も生まれなかったのではと感じる。

効率的として評価されることも多い日本型企業の生産体制だが、その効率性は必ずしも全員にとっての利益を意味しない。

在庫を持たず、必要なものを必要な時に供給する仕組みは、一見無駄がない。

だが、その「無駄のなさ」は、余裕のなさでもある。

突発的な需要や遅れを吸収するのは、結局のところ現場の労働者であり、特に下請け企業の側に負担が集中する。

このように見ていくと、「日本型雇用」がしばしば称賛される理由にも疑問が生じる。

「格差を生まず、全員が豊かになりながら高い競争力を実現した理想的なモデル」として語られることも多いが、それはどの範囲を見ての評価なのか?

企業の内部だけを見れば確かに安定と平等が存在するかもしれない。

しかし、社会全体で見れば、大企業と中小企業の間には大きな格差が存在し、その差は容易に埋まらない。

むしろ、「どの会社に入るか」がそのまま人生の条件を大きく左右するという意味では、かなり強い選別が働いているとも言える。

もちろん、このような「大企業が中小企業に負担を押し付けることで栄える」という日本の生産方式を「強ければ何をやっても良いんだ!!」という弱肉強食の仕組みを好むは自由である。

だが、私が不思議に感じるのは、それを

「ジャパン・アズ・ナンバーワン」

「格差を生まず全員が富みながら世界一の競争力を誇る日本型雇用」

「世界一成功した社会主義」

というような格差否定派が絶賛していることである。

それはあなたちが、最も軽蔑しているはずの新自由主義者の手口では?

下請けの中小企業が海外に存在しているというのであれば、可視化されない理由も頷けるが、搾取されている人が近くにいるはず、もしくは本人がそうかもしれないのに、なぜそれを直視せずに、上澄みの大企業だけ見て「日本型雇用は格差を生まない!!」と言っているのか疑問である。

念のために言っておくと、下請けや子会社を雇用や需要のような自社の都合の調整弁に使用しているのは製造業だけではない。

「グループ会社」、「協力会社」、「パートナー企業」などともっともらしい名称を付けて、「みんなで一つのものを作っている」体を装いながら、本当は「発注側と受注側」、「支配と従属」の関係を徹底していることは決して珍しくない。

・「社会主義」という評価も皮肉としては的外れではない

このように、なぜか「格差を生まず、全員が豊かなになれる」と言われることが多い日本型雇用は、社会全体で見れば、実は社会主義とは真逆の新自由主義的システムと言える。

しかし、大変皮肉なことに、「安定と平等、無駄のない設計で、全員が豊かになりながら経済成長」を建前としながら、実態は「少数のエリートが富を独占」という構図においては、ソビエト社会主義共和国連邦(旧ソ連)と似ていなくもない。

ソ連は資本主義の国が世界恐慌に苦しむ中で、5カ年計画を遂行して、豊かに平等に経済成長を果たしたと言われた。

アイルランド出身の文学者のバーナード・ショーは、ソ連訪問時にソ連型経済を絶賛して「明日、私はこの希望の土地を去り、我々の絶望の国へ帰る」という言葉を残すなど、当時は「社会主義(共産主義)は資本主義に勝利した」と疑わない海外の者もいた。

ところが、経済成長の裏には、地主から土地を取り上げたり、反政府活動かを僻地へ送って強制労働させるなどの闇も多く存在した。

また、「前衛」と呼ばれるエリートが国民を指導する方針のため、「階級がなく平等」という建前に反して、エリート校を卒業して共産党に入党して特権階級を手にすると、国民の貧困とは対照的に、彼らが一生見ることすら出来ないような海外の高級品に囲まれる生活を謳歌することも出来た。

対する日本企業は年功序列と終身雇用によって、出来の悪い労働者も決して見捨てることなく、従業員全員が成長することで、高品質製品を生み出し、一億総中流と呼ばれる経済大国になったと言われていた。

ジェイムズ・アベグレンやエズラ・ボーゲルのような海外の学者もこのシステムを高く評価した。

しかし、「従業員全員が平等に豊かになる」というのはあくまでも大企業の内部に限った話で、大企業と中小企業の格差は大きく、むしろ、自分たちの負担を下請けに押し付けるという犠牲によって繁栄していたことは否定できない。

中小企業勤務の人にとっては、大企業の高い給与も福利厚生も一生目にすることがない夢の世界で、会社の違いが階級の違いに近い側面もある。

また、大企業は新卒一括採用が原則で、新卒時に入ることが出来なった人はその後挽回することが出来ず、これは階級の固定化とも言える。

このように、ソ連と日本には、「格差がなく全員豊かになる」という社会主義的な建前だけど、「実際はかなりの格差が存在して、しかも少数の強者の成功には多数の弱者の犠牲が不可欠だった」という類似点が見られる。

もちろん、強制力や政治体制といった点で両者を単純に同一視することはできない。

しかし、「一部の集団の内部では平等が保たれ、その外側に負担が押し付けられる」、「既得権を手放すくらいなら、システムと共に心中することを選ぶ」という構造に注目すれば、共通点があるのも事実である。

ソ連はおよそ70年で消滅した。

日本型雇用の起源は諸説あるが、そろそろ同じように寿命を迎えることだろう。

もしかしたら、とっくに朽ち果てて、今はそれに代わるものもないアノミー状態に陥っているのかもしれない。

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