「結婚」への幻想によって引き起こされる苦しみ

前々回の記事では、当たり前だと思っている「結婚」の仕組みと、それが生まれた社会的背景、なぜか都合よく混同されているひと昔前の時代の家族観との違い、それから、誰もが結婚できた社会の影について取り上げた。

そして、前回の記事では社会が変わっても、前時代の幻影に縛られて悶える社会について書いた。

今回の企画は、東京在住の私に対して、地元に戻り結婚することをしつこく勧める元同僚が考えている「伝統的であたたかいひとつの家族」という妄想のデタラメぶりを指摘することが目的だった。

そのため、当初は前々回の途中で触れた箇所までで終了する予定だった。

そもそも私自身、結婚していないし、する予定もないし、「諦めた」を通り越して拒絶さえしているため、結婚にそこまで興味がなかった。

しかし、彼との決戦に向けて、何度も本を読み返していると、次第に他の箇所にものめり込んでしまい、その時に感じることも多かったため、結局はすべてを記事にすることにした。

特に現在の社会状況についての分析は、まるで伏線を回収するかのように、これまで私がブログで書いてきたことの違和感を説明できるのではないかと思えた。

①:どうしても恋人が欲しい人が考えていること

以前取り上げたことがあるが、これまでペンパルサイトで外国人とやり取りをしていると、国籍、性別問わず、漠然と恋人が欲しいと考えている人が大勢いた。

彼らの大半は親友と呼べるような同性の友達すらいない人たちだった。

そして、例外なく仕事に満足していない。(もしくは失業中)

にもかかわらず、彼らが「彼女(彼氏)が欲しい!!」と訴えるたびに私は違和感を持っていた。

「いや、同性の友達すらいないのに、何で(作るためのハードルが遥かに高い)恋人ができると思ってるんだよ!?」

そう言いたくなったのは一度や二度ではない。

彼らは恋人ができるだけで人生が変わるとでも思っているのだろうか?

少なくとも私には、彼らの考えは甘ったれた現実逃避のように思えた。

しかし、今回の企画のために結婚のことについて考えていると、彼らが「どうしても恋人が欲しい」と思う理由が分かる気がした。

前近代社会では共同体で生活していたが故に親密性、恋愛感情、性的満足といった情緒的満足を求める相手を分散させて、周囲と緩く繋がることができた。

一方で、近代社会では地域や親戚共同体が消滅し、情緒的な満足のすべてを一人の相手に依存することになる。

彼らは、この近代社会の原理と今の自分が置かれている状況を皮膚感覚で知っているのだろう。

自分が暮らしている社会には居場所がないことを。

仲間と呼べる人がいないことを。

そして、一人の恋人を作ることができれば、すべての情緒的満足を満たすことができて、このような状況から(心理的には)抜け出せることを。

彼らにとっては一人の恋人の存在は、今の窮地から救ってくれる救世主のようなものなのだろう。

だから、どうしても恋人が欲しい。

彼らはそのように考えているのだろう。

まあ、それでも彼らに対しては

「いや、あんた恋人を作るよりも、他にやることがあるでしょう?」

と言いたくなるが…

②:「何者かにならなければならない」という焦燥感

昨年の11月に、「勉強が得意ではないから大学へは行きたくない。しかし、就職したくない。というか、就職する自信がない」と悩んでいる高校生が漠然と「このままでいいのか…」と思いつめて、高額の学費がかかる専門学校に進学することを止める記事を書いた。

そんなことをするくらいなら、親元でフリーターをやっていた方がマシである。

彼らが、(もしくは彼らの親が)このような吹っ切れた態度を取ることができず、

「フリーターではダメだ!!」

「何でもいいから学校に通わなきゃ!!」

「ちゃんと就職しなきゃ!!」

と思いつめる理由は、経済的自立を果たしたいというよりも、社会的な肩書がなければ安心できないという焦りであるような気がする。

なぜ、彼らはそこまでして「何者かになりたい!!」と思うのだろうか?

たとえ、自立しなくても、周りから立派だと思われる仕事をしていなくても、家族や友達に囲まれて楽しく過ごすという生き方をすればいいのではないか?

そう感じていたのだが、これも近代社会と近代的結婚の仕組みを考えているうちに解けてきた気がした。

近代社会では前近代社会のように生まれた時から居場所や仲間がいて、共同体の中で緩く周りと繋がりながら生活をして一生を終えることができない。

経済的基盤だけでなく、居場所や生きがいを感じる情緒的満足感を、仕事や結婚を通じて、自分で獲得しなければならない。

そして、それができなければ、他人との絆を築くことができず「自分は何のために生きているのか?」「自分はこのままでいいのか?」という存在論的不安に悩まされる。

彼らを突き動かしているのはそのような存在論的不安なのではないか?

何者かにならなければ、この社会に居場所がない。

自分の人生に意味が欲しい。

だから、どうしても何者かにならなければいけない。

もしも、彼らが、前近代社会のような共同体の中だけで生きていくことができたら、そんなものを手に入れることができなくても、悩むことはなかっただろう。

もちろん、現在はそのような社会でないのだから、地域や親戚といった共同体に包摂される生き方は難しいのかもしれない。

とはいえ、現在は前期近代社会でもないのだから、「誰もが当時のように就職も結婚もできる」わけではないし、そもそも、根本的にそのような生き方ができない人や向いていない人もいる。

そんな人たちが前時代の社会規範だけで、勝算もなければ、本来参加する必要もない争いへ加わらなければならない理由などない。

ということで、彼らには

「仕事で自己実現しなくてもいい」

「自分の家族を持たなくてもいい」

「そんなものは前時代の価値観に過ぎないのだから、そんな下らない競争から降りろ!!」

と言って、洗脳を解いてやりたい。

のだが、実のところ、それが正しいやり方なのかは分からない。

家族(生殖家族ではなく、親や兄弟のような定位家族の方)がいて経済的に困らない人や、結婚以外の親密性を満たせる相手がいる人、すなわち近代社会の規範から脱落しても十分に生きていくことが可能な人に対してはそう言えばいいだろう。

しかし、そのような資産が一切なく、近代社会の価値観だけが支えとなっている人に対して、自分の思い描く理想の社会を語り、「君もそうすべきだ!!」などと上から目線の説教をすることは、たとえ社会が変化しても「結婚して自分の家族を持つべきだ!!」「結婚は愛情と経済力の両方を満たすものであるべきだ!!」と未だに近代社会の規範を押し付けて他人を苦しめている迷惑な人たちと何も変わらない気がする。

彼らに対してできることは、規範から降りることを勧めるのではなく、「たとえ上手くいかなくても、それは全然恥ずかしいことではない」と声をかけることくらいだろう。

③:近代結婚への固執する社会に苦しめられる人

前回の記事で今の日本は「結婚困難社会」であるということを書いた。

変化を受け入れずに、近代的結婚に固執する社会では、結果的に結婚そのものが困難となっている。

しかし、近代社会は誰もが結婚できる(しなければならない)社会であったため、近代的結婚へ固執している人は「結婚することが当然である!!」という皆婚の規範を大きく振りかざす。

このような人たちは、「相手に高望みし過ぎだ!!」とか「そんなんじゃ、将来は一人で寂しく死ぬことになるぞ!!」と言って、とにかく結婚することを要求する皆婚思想を振りかざす一方で、経済力も親密性もすべて一人の相手が満たさなければならない近代的な家族の在り方以外の結婚は決して認めようとしない。

そして、辛うじて結婚できた人に対しては「一家の大黒柱なのだから、男一人の稼ぎだけで家族全員を養え!!」とか「一国一城の主になるためにマイホームを買え!!」などと無責任な妄言を垂れ流して経済的に追い詰める。(というよりもペテンにかける)

ちなみに、彼らは近代的結婚こそが日本の伝統であり、自分たちはその秩序を守っているつもりでいるが、後期近代社会の経済の恩恵、つまり前期近代の安定を奪われた人たちの犠牲の上に成り立っているサービスはちゃっかりと受け取っている。

本人に悪気はないのだろうが、すさまじいほどの言動不一致であり、質(たち)が悪いったらありゃしない。

こんな人たちにネチネチと説教をされる人は不憫でならない。

幸い、私は彼らのことをウザいと思うことはあっても、実害を被ったことはない。

しかし、彼らのことを考えていると因縁深い人物のことを思い出した。

昨年末に、私は生きるためにこの社会で「フツー」と呼ばれる生き方を完全に放棄して「外道」として生きることを決意した時の記事を書いた。

この社会はかつてのような

・正規雇用(正社員)=仕事が厳しいが安定している

・非正規雇用=不安定だが気楽

という雇用形態が壊れている。

そして、この社会で暮らす人々は非正規雇用の増加や格差の拡大の原因となっている現代の経済システム(ニューエコノミー)の恩恵は当然のように受け取っている。

にもかかわらず、未だにその現実を受け入れず、前時代の雇用モデルに固執して、自分の理想とする社会(これを「昭和モデル」と呼んでいいのかは分からないが)こそが唯一絶対の普遍的な社会人としての在り方で、それ以外の生き方を決して認めようとしない人間がいる。

なんとも身勝手な人間であり、私は彼らのことを「自称社会人」と呼んで蔑むことにした。

彼らの考える「社会」とは現実社会のことではないため、彼らの言う「フツー」なんてものを真に受けていたら、自分はますます窮地に追い込まれることになる。

そう考えた私は、彼らのことを敵視して、彼らの考える、そしてしつこく押し付けてくる「フツーの生き方」を断固拒否して「外道」として生きることを決心した。

そのような経緯から、相手がいないのに「どうしても結婚したい!!」と焦っている人は「自分の根を持たずに、バカバカしい社会の風習に流されているだけの脆弱な人たち」だと思い軽蔑していた。

だが、近代的結婚に固執して結婚そのものが困難になっている社会では、私のように、それまで「従来の」や「伝統的な」と言われている「男は一家の大黒柱として働き、女は良妻賢母として家で家族を支える」という「立派な社会人コース」から逸脱している人間は決して「外道」と呼べるほどの異端者ではなく、実はありふれた存在なのではないかと思えた。

結婚以外の生き方を認めない一方で、「従来」の結婚スタイルしか許されないという自称「保守派」の身勝手な屁理屈に苦しみ、孤独に生きている人たちは、私と決して相容れない存在ではなく、実は同じ境遇にいるのではないのか?

まあ、苦しみながらも必死にこの社会から認められる生き方を手に入れたいと這いつくばっている人たちは、私みたいに自らの意志で逸脱した人間と一緒にされたくないと思うでしょうけど。

彼(彼女)らの心境はどうであれ、私がこれまで見下していた「結婚したいけどできない!!」と嘆いている人たちにも親近感が湧いてきて、「私は一人ではない」という勇気さえ与えてもらえた気がした。

だからこそ、退職前にアプローチしてくれた同い年の同僚女性を「私なんかではなく、他にいい人を見つけた方が本人の幸せのためだから」という思いで一方的に突き放したことをひどく後悔することになったのだが…

・解決法はあるのか?

繰り返しになるが、現在はかつてのように誰もが結婚して自分の家庭を築ける時代ではない。

しかし、どれだけ制度が変わっても、近代的結婚に固執する人が減ることはないだろう。

それは、かれこれ30年近くの間、非正規労働者や所得格差が広がり続けて、以前とは全く違う社会になってしまったにもかかわらず、依然としてそれ以前の社会の常識や規範が唯一絶対普遍的な生き方なのだと信じて疑わない自称社会人のバカさ加減を見れば容易に想像できる。

見通しは暗いが、そんな混沌とした社会を生きていくための良策はあるのだろうか?

今の私が言えることは、先ほど少し触れたことと重複するが、「今は誰もが結婚できる時代ではない」という事実を受け止めて、「家族」という器ではなく、絆で結ばれて、お互いに支え合うことができる仲間をつくることしかないと思う。

・今日の推薦本

結婚と家族のこれから 筒井淳也(著)

経済性や親密性といった視点から結婚の在り方や海外のことについてもっと知りたい方におすすめ。

今回は取り上げなかった家事分担や税制、「純粋な関係性とは?」などの見所も多数ある。