
毎年、新年度が近づくと、新入社員に向けて必ずと言っていいほど語られる言葉がある。
「失敗を恐れずにどんどん挑戦してほしい!!」
前向きで耳触りもよく、いかにも理想的な組織像を感じさせる。
しかし、この言葉は本当に現場や経営者の本音なのだろうか?
私はそれを言われているのが他人であっても、その言葉を聞くと違和感を覚えてしまう。
それってさあ…
どこまで本気で言っているの?
・1万件のうち、1件でも間違えたら…

そう感じる理由は、新入社員に限らず、ここ20年ほどで社会全体が明らかに「失敗に不寛容」になっているように思えるからだ。
むしろ現在は、「上手く出来ないなら、余計なことは何もするな」という空気の方が強くなっているのではないか?
少なくとも、私が実際に働いてきた職場の感覚はそうだった。
たとえば、ここ5年で経験した複数の職場では、顧客へのメール送信について共通した考え方があった。
「メールは必要な人に送れないことよりも、送ってはいけない人に送ってしまう方が怖い」
「たとえ1万件のうち9999件が正しく送れても、1件の誤送信があれば、それは許されないミスになる」
この考え方は一見極端にも思えるが、現場ではごく当たり前の認識として共有されていた。
この背景にあるのは、個人情報の流出に対する強い恐怖だろう。
かつてであれば、はがきや郵便の誤送付が起きた場合、問題視されるのは再送や謝罪対応に伴う時間やコストといった「実務的な損害」だった。
そんなミスを引き起こしたら
「何やってんだ、バカ野郎!!」
「お前のミスで皆こんなに迷惑しているんだぞ!!」
と怒鳴られたかもしれないが、言い換えれば、それだけ終わりである。
しかし、現在は違う。
仮に実害が確認できなくても、クレームが来なくても、「個人情報が漏れた」という事実だけで即アウトとみなされる。
損害の有無ではなく、「発生したかどうか」そのものが問題になるのだ。
こうした環境では、失敗は単なるミスではなく、組織の信用を揺るがす重大インシデントに変わる。
極端な話、ミスの対応に伴う時間や費用の損害など些末なことで、そっちの方が重要視されている。
企業によっては取引停止、謝罪会見、行政指導に発展することもある。
その結果、現場の判断基準は大きく変わる。
「どうすれば効率的か」ではなく、「どうすれば絶対に事故を起こさないか」が最優先になるのだ。
・ IT化や効率化が進まない理由

IT化が進まず、非効率な作業が残り続けるのも、この文脈で考えると理解しやすい。
以前の職場では、「顧客への連絡はメールではなく、極力電話で行うように」という指示があった。
当時の私は「なぜこんなにアナログな方法にこだわるのか?」と疑問に思っていたが、今になって考えると理由は明確だ。
電話であれば、番号を間違えても名乗った時点で誤りに気づけるし、やり取りが文章として残らないため、後から拡散されるリスクも低い。
つまり、効率は悪くても「事故の拡大を防ぎやすい」手段なのだ。
別の職場では、さらに徹底していた。
メールの本文や宛先はマクロで自動生成される仕組みが整っているにもかかわらず、送信前には必ず手作業で確認を行う。
しかも一度ではない。
過去のメールや別のデータベースと照合し、さらに第三者のチェックを経てようやく送信する。
その会社は業界では超大手で、もしもそこに正社員として就職していれば、世間から羨望の眼差しで見られるかもしれない。
そんな「一流企業」とは到底思えないほど、徹底した「人力による確認」だった。
一見すると、くだらないと思えるが、リスク(というか責任)回避という面においては、これまた合理的な行動だ。
システムが間違えた場合、その責任は曖昧になるが、人間が確認していれば「確認したのに見逃した」という説明が成り立つ。
つまり、これは単なるミス防止ではなく、「責任の所在を明確にするための行動」(というか「自分が責任を回避するための行動」)でもあるのだ。
このような状況では、どれだけ高性能なテクノロジーが導入されても、最終的な判断は人間が行うという構造は変わらないだろう。
むしろ、技術が進めば進むほど、「本当に大丈夫か?」という不信感から、人の目による確認が増える可能性すらある。
結果として、IT化は進んでいるのに、運用はアナログのまま(「デジタル昭和運用」)という矛盾が残り続ける。
メール送信業務の外注についても、単なるコスト削減だけでは説明できない側面がある。
もちろん外注には効率化や専門性の活用といった利点があるが、それ以上に「リスクの移転」という意味合いが大きいのではないか。
万が一誤送信が発生した場合、企業は形式的な謝罪こそ行うものの、「委託先のミス」として、(普段はしつこく口出ししていたにもかかわらず)「私たちは外注先の業務プロセスにはノータッチでしたので、一切把握しておりませんでした…」と責任逃れをして、挙句の果てに契約打ち切りと損害賠償の請求など徹底して被害者ポジションを保つことができる。
たとえ事業としては赤字でも、その費用はこうした掛け捨ての保険と割り切ることができる。
・時代に淘汰されたはずの亡霊が蘇る

ただ、ここで私が疑問に思うのは、20年前はここまで極端に失敗を恐れる風潮が強くなかったのではないか、という点だ。
むしろ逆だったように感じる。
当時のプロ野球界では、ボビー・バレンタインやトレイ・ヒルマンといった外国人監督が長年低迷していたチームを立て直し、その指導法が注目を集めていた。
「積極的なプレーで起きたミスはミスではない」
「成長過程の失敗は歓迎すべきだ」
このような彼らの指導法やチーム運営は多くの支持を集め、その手法は野球界にとどまらず、ビジネスの世界にも応用できるとして、多くのメディアで取り上げられた。
「ヒルマン監督に学ぶ部下との信頼関係の築き方」、「選手のやる気を引き出すバレンタイン監督流マネジメント」などのビジネス書(書名はいずれも仮名)が多く発行され、彼らは多くの講演会に引っ張りだことなった。
一方で、怒鳴る、殴るといった旧来型の指導スタイルは強く批判され、「ミスは許さない」といった管理は、時代遅れの象徴のように扱われていた。
つまり当時の社会では「ミスを恐れない挑戦を歓迎する社会」がもてはやされていたはずなのだ。
しかし、現在はどうだろうか。
さすがに怒鳴ったり暴力を振るったりする職場はそう多くないものの、「余計なことをするな」、「失敗するくらいならやるな」という空気は、むしろ強まっているように感じる。
言い換えれば、かつて「時代遅れ」として嘲笑の対象とされていた昭和流が蘇っているのだ。
にもかかわらず、この変化に真正面から向き合い、議論している企業やメディア、SNSはあまり見かけない。
多くの場合、「挑戦を促すべきだ」といった理想論が語られる一方で、現場の現実とのギャップについては深く掘り下げられないままになっている。
そもそも、自分たちが他人の失敗に不寛容である事実を認めることすら拒否している気がする。
その結果、「失敗を恐れるな」と言われながら、実際には失敗が許されないという矛盾したメッセージが社会全体に広がっている。
このような環境で、若者がリスクを取って挑戦しようとしないのは、むしろ当然のことではないだろうか?
失敗に不寛容であること自体も問題だが、それ以上に問題なのは、その現実を直視せず、理想だけを語り続ける社会のあり方だと思う。
言葉と現実が乖離したままでは、どれだけ立派なメッセージを掲げても、人はそれを信じなくなる。
「失敗を恐れずに挑戦しろ」という言葉が本当に意味を持つためには、まず社会や組織が、どこまでの失敗を許容するのかを明確にし、その範囲の中で安心して挑戦できる環境を整える必要があるのではないだろうか。
現実を変えないまま理想だけを語る限り、この言葉はこれからも空虚なスローガンとして繰り返され続けるのだと思う。









