弟子入り志願者現る①

年末年始の休暇中は特にやることもなく、いつも買い物をしているスーパーの正月休みに備えて、生活必需品の買い溜めをする以外はずっと自宅で過ごしていた。

やることといえば、いつもと同じように英語の勉強か、読書か、ブログを書くことだけ。

となるはずだったが、メールを送ってくれた読者に返事をすると、そこから思わぬ方向へ話が発展していった。

彼がその時のやりとりで満足のいく結果を得られたのかは不明だが、彼は「個人情報は伏せる形で、このやりとりを記事にしたい」という私の申し出を承諾してくれた。

というわけで、今日はその時の話をしようと思う。

・読者の進路相談

今回メールを送ってくれた人のプロフィール

・名前:タカシ(仮名)

・性別:男性

・年齢:21

・所在地:西日本

・職業:派遣社員として工場で勤務

彼の最初のメールは昨年の1229日に届いた。

最初に送られてきたメールの内容を要約すると、

:昨年の10月にこのブログを見つけたこと。

:初見の記事で私に興味を持って、それ以降、すべての記事に目を通したこと。

:仕事関係の記事で私の主張に共感したこと。

:私の活動に参加したいと思っていること。

こんな内容が書かれていた。

~③のことに関しては「ありがとう」と言いたいが、④に関しては相談に乗ることはできないと思った。

このブログは私の体験や出会った人について書いているだけである。

何か特定の情報を発信しているわけでもなければ、「ブラック企業と戦おう!!」とか「子どもをいじめから守ろう!!」というような大義名分の元で運営しているわけでもない。

というわけで、書き手が増えたからといって、内容が充実するようなものではない。

サイト運営の技術的なサポートをしてくれる人や、英語以外の語学力を持っており、その国の人たちから詳しい話を聞き出せそうな人たちなら歓迎するのだが、対価として満足な報酬を払えるわけでもないため、相手方にメリットになることは何もなく、そんな人たちに「協力してください」と言えるはずもない。

というわけで、「今の段階では、仲間を募集するつもりありません」と告げて、お引き取り願ったのだが、彼の願いはそういうことではなかったらしい。

「弟子にして下さい!!」

これが彼の希望らしい。

このメールを見た私は意味が理解できなかった。

弟子ってブログ運営のこと?

私が運営しているものは一日何千件ものアクセスがあるような人気ブログでもないのだから、弟子入りを志願するようなものではない。

それに文章の書き方も平凡である。

そもそも、ブログなんて、作ろうと思えば誰でも作ることができる。

彼は一体私から何を学びたいと思っているのだろうか?

・一緒に戦いたい

私はタカシに、何かを教えた実績もなければ、教えることが得意な人間でもないことを伝えた。

すると、彼から現状の報告も兼ねたのか長めの返信が届いた。

長かったので要約する。

・高校を卒業してから2年間は地元の小売業者で正社員として勤務。

・勤務時間が週6日、1日最低10時間としんどかったため2年で退職。

・再就職が上手くいかず、今は工場で派遣の仕事をしている。

・地元に住んでいるが、高校を卒業して以来、友達にも会っていない。

・家族は新卒2年で辞めた自分を責める。

・日々息苦しさを感じて「この社会の働き方はおかしい」と思っていた。

・このブログを読んで、自分が社会へ向けて言いたかったことを代弁してくれていると感じた。

・自分も理不尽な社会と戦いたい。

・そのために弟子にしてほしい。

ちょっと!!

人のことをテロリスト呼ばわりするな!!

(注:管理人は武装闘争はもちろんのこと、政治活動や福祉活動のような社会活動も一切行っておりません)

そもそも、「仲間など要らん」と言っているのに何の押し売りですか?

「私なんかに弟子入りしないで真っ当に生きなさい!!」

と言ってやりたかったが、大切なブログの読者である彼を無下に突き放すことは出来ず、せめて話を聞いてみることにした。

私は彼に3つの質問をしてみることにした。

:なぜ、数いるブロガーの中で、あえて私(早川)に弟子入りを志願するのか?

:あなたはどの記事を読んで、そのような考えになったのか?

:仲間になったとして、何をやるつもりなのか?

彼の返信次第で私も今後の対応を変えることがあるかもしれない。

・雲の上の人よりも身近な人

まず①の質問に対する彼の回答を見てみよう。

彼がどんな人なのかを伝えたいので、なるべく送られてきた形式のままで要約する。

タカシ:

どんなに素晴らしい記事を書いていても、他のブロガーはテレビに出ている有名人みたいに雲の上の存在で、自分とは違う特別な人のように感じます。

だけど、早川さんは近所のお兄さんのようにとても身近な人のような気がしました。

ブログを拝見させていただいた限りですが、早川さんは一流大学を卒業しているわけでもないし、大企業でバリバリ仕事しているわけでもなさそうです。

それに、お友達がたくさんいて、私生活を謳歌しているわけでもない。

それでも、無理に他の人と同じレールに乗ろうとせずに、しっかりとした自分の考えを持って、独学で英語を学んで外国の人と交流したり、ブログで自分の意見を発信したりして、自分の道を進む姿がすごいと思います。

そして、ご自身の失敗を「これでもか」余すことなく公開しているところも、自慢話一辺倒の人たちと違って立派だと思います。

やかましいわい!!

人のことをダメ人間の希望の星みたいに言うな!!

俺だって、好きでこんな偏屈な生き方に行き着いたわけじゃねえわ!!

当初は頭ごなしに「私のようにならずに真っ当に生きなさい!!」と説教すべきではないと思っていたが、やっぱりそう言ってやろうと決心したのであった。

・それは誤解です

次に②の回答を見てみよう。

タカシ:

最初に読んだのは、この「「断る力」と「甘える力」は社会で生きるために大切な能力である」です。

その記事の最初に出てきた「残業をしない人よりも、個人的な好みで仕事を回す人の方が協調性のない社会不適合者である」という言葉に感動して、一気にこのブログのファンになりました。

仕事関係の記事はどれも素晴らしいと思います。

これらの記事が特に心を動かされました。

職場で涙を流すのは本当にダメな人たちなのか?

いじめと奴隷の鎖自慢

ズッコケ社員に尻拭いされるモーレツ社員

それから、「フツー」の生き方を捨てたという読んで、今はとても質素な生活をしていることが分かりました。

自分も同じ経験があるので、なかなか仕事に就けず、周りからも理解されない時の気持ちが分かります。

それでも負けずに立ち上がって、ストイックに生きている姿に感動しました。

社会に対する考え方だけでなく、人間としての生き方も自分にとって目指すべき存在です。

誤解を与えて申し訳ない。

5年前に今までの自分と決別したような書き方をしたけど、実はその時のはるか前、高校生の時から、私は「日本的な」正社員の働き方に違和感を持っていて、それ以外の生き方を模索していた。

あの時の体験はそのかすかな希望が打ち砕かれて、この「社会に自分の居場所がないこと」と、「自称フツーの社会人は仕事以外の面においても敵だ」ということを改めて認識しただけ。

それ以前から英語の勉強はしていたし、友達も恋人もいなかった。

休日に楽しむ趣味があったわけではないし、従来の正社員コースにいたわけでもない。

海外へ出ていくという選択肢もすでにあった。

そのため、それまでの生き方を180度変えて、すべての欲望を断ち切って人生を再出発するような苦労をしたわけじゃない。

私は彼の考えているような立派な人間ではない。

の回答に対する返信は本音を隠して「ありがとう」とだけ答えたのだが、この回答に対しては思ったことを正直に伝えた。

・理不尽な社会と戦う?

そして、3つ目の質問は「仲間になったとして、何をやるつもりなのか?」である。

私の予想に反して、彼の回答は短くシンプルなものだった。

タカシ:

早川さんはこれまで、この社会の理不尽を糾弾したり、偉そうなことを言っている人が本当はデタラメばかり言っていることを指摘する記事を書かれてきたと思います。

僕も同じようにこの社会のあり方を糾弾して、苦しい思いをしている人を救う記事を書きたいと思っています。

まず、事実を確認したいのだが、私はこれまで自称フツーの社会人への嫌悪と彼らの欺瞞ぶりへの怒りを表明したことは何度もあるが、「理不尽な社会と戦う!!」とか「この社会で虐げられている人を守る!!」などと宣言したことは一度もない。

にもかかわらず、なぜ彼は私が「戦っている」と思っているのだろうか?

それを彼に確認してみた。

タカシ:

それはこの記事を読んだからです。

ペンパルサイトで仕事仲間を見つけるもバックレられる

今後の予定とコメント欄について

ここに「生きる勇気を与える」というフレーズが出てきます。

仕事で悩んだり、苦しんでいる人を救うために、「この社会がいかに間違っているのか」という記事を書かれているのではないですか?

僕もそうして救われた人間の一人です。

それが、早川さんのこのブログを通してやろうとしていることではないのですか?

さすがに、すべての記事に目を通しただけのことはあって、私の過去の発言も細かく覚えているようである。

しかし、彼は致命的な勘違いをしている。

「自称フツーの社会人のデタラメさを糾弾すること」と、「社会と戦うこと」は同じではない。

以前、この記事書いたことだが、戦うべき相手を見定めず、無鉄砲に攻撃をしかけても、自分が憎んでいる相手を葬ることはできず、無関係な人ばかりを傷つけてしまう結果に終わってしまうことが多い。

だから、私は「社会と戦う」という言葉は使うべきではないと思っている。

そもそも、「社会人」と自称している人間など、この社会の一部でも何でもないし。

次回へ続く

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