
前回の記事のテーマは東京と地方における働き方についてだった。
今回も同じような話をしたいと思う。
・地方は問題児の左遷先!?

東京に本社がある会社を舞台にしたドラマやアニメを観ていると、よく見かける展開がある。
主人公やその仲間に嫌がらせを繰り返す悪役社員がいる。
しかし、最後には悪事が上層部に発覚し、「○○支社へ異動だ」と地方支社への転勤を命じられる。
そして、主人公たちは「これで平和になった」と胸をなで下ろし、物語は大団円を迎える。
勧善懲悪として分かりやすい結末である。
だが、この展開を見るたびに、私は少し複雑な気持ちになる。
それは本当にハッピーエンドだと言えるのか?
まず、私は地方への人事異動そのものについては反対しない。
仕事や環境には向き・不向きがある。
本社の企画部門では結果が出なかった人が地方支社の営業では力を発揮することもあるし、本社ではノルマや人間関係に苦労していた人が、地方の別部署では生き生きと働くこともある。
このような配置転換は、本人にも会社にもメリットがある。
しかし、パワハラやセクハラなどの問題行動を繰り返したり、最初から仕事をする気がないなど、勤務態度に問題がある人を「懲戒目的」で地方へ飛ばすという発想には違和感がある。
本社の社員は「厄介払いができた」と安心するかもしれない。
だが、その人を受け入れる地方支社はどうなるのだろうか?
本社で問題を起こした人が、そのまま地方支社でも同じことを繰り返せば、新たな被害者が生まれるだけである。
それはただ場所を移しただけで、問題は解決したのではない。
そして、そんな問題社員を押し付けられた地方支社の人は堪ったものではない。
私は西日本の田舎で育ったこともあり、そのような描写を見るたびに少し引っ掛かる。
一体、地方支社を何だと思っているんだ!?
ドラマの制作者が地方を見下そうとしているわけではないかもしれない。
しかし、結果として、「問題社員は地方へ送ればよい」という構図が何度も描かれると、「地方支社は本社で扱いに困った人の送り先」というイメージが無意識のうちに定着してしまう危険性がある。
現実には地方支社にも真面目に働く社員がいる。
地方工場や研究所が会社の中核を担っている企業も少なくない。
そう考えると、「東京で問題を起こした人を地方へ送る」という描写は、地方で働く人たちからすれば決して気持ちの良いものではないだろう。
・心が弱い人間は「悪」を切り離すことで安心する

このような「地方支社は問題社員の墓場」というシーンを思い出すと、私はあることに気付いた。
そのようなシーンの演出は、地方差別というよりも、人間が持つもっと普遍的な心理を表しているのではないか?
それは「悪を自分たちとは違う世界へ切り離すことで安心したい」という心理である。
たとえば、いじめ問題である。
中学生がいじめを苦にしてと思われる自殺をしたという報道があると、いじめの加害者だけではなく、事を荒立てたくない学校や教育委員会、地域社会ぐるみで隠蔽を行い、加害者たちと無意識に結託して、被害者家族へ圧力をかける姿が批判されることがある。
報道でその様子を見た人は、「○○県は田舎だから未だに人権意識が低い中世社会なんだ」などと、その地域全体に問題があるかのように語ることがある。
対して、県内の人は「事件が起きた××市は昔から『裏街』などと言われて、閉鎖的な地域で差別的な人が集う地域だった」と言う。
さらに××市の人は「昔はここも良い所だったけど、改革派市長の政策で新住民が増えてから治安が悪くなった」と説明する。
このように各々が、「いじめや隠蔽のような非道な行いに手を染める者は、自分とは別の特性がある人」と思うことで、「だから自分は違う」と安心しようとする。
凶悪事件の報道でも似たような現象が見られる。
ニュースでは容疑者の年齢や性別、職業、家族構成などが紹介される。
それを見て、
「やっぱり、男だからこんな酷いことをするんだ(=自分は女だから違う)」
「やっぱり、年寄りだからこんな酷いことをするんだ(=自分は若いから違う)」
「やっぱり、無職だからこんな酷いことをするんだ(=自分は定職に就いているから違う)」
というように、何とか自分との違いを探して安心しようとする人もいる。
これは珍しいことではない。
もしも、「普通の人でも状況次第では加害者になり得る」、「どこの地域でも同じことは起こり得る」と認めてしまえば、自分の足元まで揺らいでしまう。
だからこそ、人は無意識に「違い」を探すのである。
よく「心が弱い人間は宗教に依存しやすい」と言われている。
不安を感じた時に宗教を信じることで、救われたいと思っているのだろう。
しかし、問題を直視して解決しようとするのではなく、脊髄反射的に自分と悪を物理的や心理的に切り離すことで心の安定を保とうとする人も同じくらい心が弱い人間だと言える。
・問題を移しただけでは何も解決していない

ドラマは人間の心理を映している
私は今回、ドラマの「地方送り」という定番の展開を考えていて、これは単なる会社の話ではないと感じた。
人は悪や不祥事、理解しがたい出来事に直面すると、それを「自分たちとは別の世界の出来事」にしたがる。
そうやって境界線を引けば、自分は安全な側にいると思える。
もちろん、被害者が加害者のその後について考える義務はない。
しかし、企業が不祥事や問題行動を起こす社員に対して、「そんな奴はとりあえず地方支社へ異動させればいい」というのは、無責任という他ない。
現実には、どんな会社にも、どんな地域にも、どんな組織にも問題は起こり得る。
重要なのは、「悪」を外へ追い出して安心することではなく、「なぜその悪が生まれたのか」、「同じ構造が自分たちの周囲にもないか」を考えることである。
ドラマでは、悪役が地方支社へ異動になれば物語は終わる。
だが、現実の社会にはエンドロールはない。
問題を別の場所へ追いやっただけでは、本当の意味で平和になったとは言えないのである。
「東京本社から地方へ左遷される悪役」という展開を改めて考えてみると、その演出の背景には、人間が持つ「悪を自分たちとは違う世界へ切り離して安心したい」という心理が映し出されているように思えた。
もしかすると、多くの勧善懲悪の物語が私たちに爽快感を与えるのは、悪が裁かれることだけではなく、「悪が自分たちの世界からいなくなった」という安心感を与えてくれるからなのかもしれない。
そして、その安心感が時として、問題の本質から目を背けさせてしまうこともある。









