中学生のような振る舞いをやめられない大人たち

前回のテーマは「既得権」であり、その中で私が中学生の時のエピソードを紹介した。

既得権を死守しようと醜態を晒すのは大人も子どもも大差ない。

さて、前回の記事の語り口は、子どもは純粋ではなく、大人と同様に汚さや醜さを持っているということだったが、よくよく考えてみると、これは逆ではないのかと思う気がした。

要するに、

・子どもは本来自己中心的な生き物だが、大人になるにつれて他人への配慮を覚える。

・しかし、中にはそれができずにいつまで経っても、子どもと同様な幼稚な振る舞いをやめることができない大人がいる。

ということである。

というわけで、今日も同じように私が中学生の時に目撃した他人の醜態と、いい歳した大人が全く同じことをやっていた時の話をさせてもらいたい。

・子どものような大人たち

:告げ口

「先生!! ○○君が学校にお菓子を持ってきていました!!」

このような告げ口はする人は学生時代に誰しもが目撃しただろう。

私が学生の時に他に見聞きしたものとしては「ケータイ(←当時はスマホなんてものは存在しなかった)を持ち込んだ」とか「先生の悪口を言っていた」とか。

今では考えられないが、体育の授業中に「水を飲んでいた」と密告する人もいた。

私が中学生の時はさすがに「練習中には絶対に水を飲むな!!」とは言われなかったが、「水分補給は個人の判断で自由に行うべき」とも考えられていなかったため、その都度、体育教師や部活の顧問に「水を飲んでもいいですか?」とお伺いを立てなければならなかった。

今の中学生には信じてもられないかもしれないが…

さて、たしかにルール違反ではあるが、いじめのような人権侵害ならともかく、なぜわざわざそのような告げ口をしてしまうのか?

私が思うに、告げ口をせずにはいられない人の根幹にあるのは「自分はルールを守って我慢をしているのに、それを破って楽をしている奴が許せない!!」という不公平感や嫉妬だろう。

しかし、そんなことをしても、自分が得することは何もないどころか、損をすることもある。

実にカッコ悪く、自分の首さえ絞めかねない愚かな行為であるが、大人になってもこのような履き違えた不公平感から他人の足を引っ張る人もいる。

このブログで取り上げた例ではこの記事で紹介した勘違い派遣社員Aがそうである。

彼は自分のペースでこまめに休憩を取る同僚派遣社員をしつこくなじり倒し、彼を早期離職に追い込んだ。

その職場はただでさえ人手不足だったため、退職されるのなら、多少は甘めに休憩を取ることの方がよっぽどマシだったのだが、Aのような履き違えた不公平感のせいで、派遣社員の人生だけでなく、会社にも損害が出たのである。

「自分はもっと苦しい思いをしたから、楽をする奴が許せない!!」という不公平感が最悪な形で現れるのが奴隷の鎖自慢であろう。

このような振る舞いは場合によっては相手を死に追い込んでしまうほど危険である。

情けない話だが、何でいい歳した大人がどうしてこんなことを辞められないのかなあ。

:派閥支配

これも、どこの中学校でも同じようなものだろうが、クラスで幅を利かせるのは運動部の連中であり、学級集団は彼らのノリで治められている。

私自身、運動は得意ではなかったが、幸運だったのはたまたま前の出席番号だった生徒が前回の記事で自転車通学の票集めに奔走していたA君であり、彼と仲が良かったことだった。

彼はサッカー部でありながら、小学生の時は野球部のキャプテンだったこともあり、サッカー部と野球部の両方に顔が利いた。

彼が間に入ってくれたおかげで、私は運動部のグループからも「てっちゃん」と呼ばれ親しくすることができた。

しかし、それでも彼らの仲間になって一緒に行動したいとは思わなかった。

単に似た者同士で集まってバカ騒ぎするだけなら結構だが、自分達を中心とした派閥支配で雑用事やクラス対抗戦の敗因は理不尽にも毎回のように軍団の非構成員に押し付けていたし、群れて粋がって他人(グループ以外の人)のことをゴミのように扱うことも(たとえ、自分がその標的にならずとも)気を許せなかったことの一つである。

彼らの頭の中にあるのは「自分たちの取って重要な相手か否か」という区別だけである。

この傾向は男子生徒だけでなく、女子生徒の派閥支配にも通じるものではないだろうか?

担任は実質クラスを統治している彼らに対して、軍団の非構成員への配慮を求める発言はしていたが、小学校の先生のように直に取り仕切ることはなく、ほとんど彼らの好きにさせていた。

まあ、彼ら教員たちにしても、子どもにそんな配慮が出来るとは最初から思っていなかったのかもしれない。

そんな人たちも大人になると他人への気遣いや、「仲が良い・悪い」の関係ではない他人との距離の取り方を覚えるのだろう。

きっと、そのような派閥支配は対人関係能力が未熟な子どもの世界だから起こっているに違いない。

そう思っていたが、私が中学校を卒業して10年経った後に、いい歳をした大人が全く同じことをやっている姿を目撃することになった。

それはこの記事で紹介した派閥のボスのことである。

彼女は工場長が体調不良で入院したことで実権を握ると、自分のお友達である仲良しグループを中心としたメンバーで職場を運営することになった。

ボスは自分たちを中心にして作業工程を変更したため、効率は上がったが、そのせいで職場は軍団の構成員と非構成員に完全に分断された。

以前は全員一緒に休憩を取っていたが、彼女たちは私たちに汚れ仕事を押し付けている時間に一斉に休憩に入り、業務の変更もその休憩中に自分たちだけで行い、私たち非構成員には対しては常に事後連絡だった。

そのような職場だったため、退職者が続出したのだが、彼女たちは意に介さず派閥支配を続け、人手不足による作業の遅れはすべて非構成員に押し付けて、自分たちのミスは仲間たち全員で見て見ぬフリをしていた。

その様子は女子中学生の派閥政治と一ミリの違いもなかった。

ちなみに、私はこの時に初めて女性の上司の下で働くことになった。(同格の先輩や社長夫人は除く)

そのため、当時は「これだから、女に権力を握らせたくないんだ…」と憤っていたが、その後の職場では、女性でも素晴らしい上司を目にすることがあったため、この傾向を女性すべてに一般化することは間違いである。

なお、他人が経験した派閥支配の話はこちらにもある。

:マウンティング

思春期の年代の人は誰しも同じことなのかもしれないが、他人の目を必要以上に気にする。

中学校のように狭い世界で濃密な人間関係を生きているとそうなってしまうのは仕方ないのかもしれない。

だが、利害関係のある小さな世界では、過度に他人の目に怯えてしまうのは大人も同じである。

ただ、それ自体は醜態とまでは呼べない。

他人の目や評判を気にして行われる最も浅ましい行為はマウンティングである。

他人から評価されたくて、自分を高めるのであれば結構なのだが、その努力を怠り、他人の勉強の成績や運動能力が自分よりも劣っていることを大げさに強調して、自分は少しでもマシな人間であるかのようなネガティブキャンペーンを展開するバカがいた。

ちなみにそのようなことをやっている当人は学校で一番、いやクラスで一番ですらないことが多い。

自分よりも優れた人間が周囲にたくさんいるにも関わらず、その人たちの存在は無視して、自分が勝てると思っている相手のみにたかってくるのである。

というよりも、実際に劣っているわけではなく、自分よりも下位の身分でいてほしいがためにイメージ操作をしている。

「そんなことも分からない(できない)の?」

「それくらいフツーだよねえ?」

そんなことをやっても、当人だけでなく、周囲の人からも蠅のように疎まれて「ウザい」と思われていることに気付かないのかなあ?

元同級生の***人見ているか?

お前のことだぞ。

もはやマウンティングですらないような気がするが、このような他人の行動を大げさに取り上げて、蔑むような人間は大人になってもいる。

不幸にもこの社会には「社会人」という言葉があり、この言葉の定義を都合のいいように解釈することによって、いくらでも他人をプチ人間以下の存在に仕立てることができる。

「社会人なのにまだ実家で暮らしているの?」

30歳を過ぎたのにまだ結婚できていないの?」

40歳を過ぎたのにまだ部下もいないの?」

一体、社会人になっても実家で暮らしているから何だと言うのだろうか?

いい歳を過ぎても、独身で部下を使う立場になっていないから何だと言うのだろうか?

自分よりも優れた人間はこの世にごまんといるのに、なぜ彼らと自分を比較して、もっと自分を高めようとしないのか?

そもそも、彼らは他人から「立派だね」と思われるために、結婚相手や就職先を選んだのか?

だとしたら、あまりにもさもしい生き方をしている気がする。

私が今まで書いてきたものでは、この記事が近い気がするが、彼らの言動は幼稚な子どもと何一つ変わりはない。

・絶望か、希望か?

以上の3つが、私が目撃した中学生と同じレベルの行動をしている大人たちである。

今回、私が言いたかったことは「人間は立場が変わっても案外中身は変わらないのかもしれない」ということである。

これを絶望と感じるか、希望と受け取るかはあなた次第である。

学校の人間関係に悩み、親や担任の教員に相談したらこんなことを言われた経験はないだろうか?

「大人になったら、誰もそんなことをやらなくなるよ」

しかしである。

大人の世界にだって子どものような嫌がらせを行う奴はいるし、小権力者による不当な派閥支配が行われることもある。

だから、「今の苦境を乗り越えれば、無条件に素晴らしい世界を与えてもらえる」と考えるのは正しいとは言えない。

ただし、大人の世界では子どものように一方的に与えられた世界を生きるのではなく、自分で所属する世界を選ぶことは出来る。

それに、「大人は皆立派ではない」ということは裏を返せば、「あなた自身も立派になる必要はない」ということである。

私が高校生の時に進路指導の教員が常々こんなことを言っていた。

高校教師:「社会には守らなければならないルールがあり、常に他人の立場に立って物事を考えなくてはならない。そこでは今の生活のような小さな世界のルールは通用しない!!」

先生、おっしゃる通りです。

でもね、実社会ではそれができない人間が腐るほどいるのですよ。

たとえ法律違反であっても、自分の勤務先のルールが社会で通用すると思って、堂々と「ウチの会社には有給休暇や残業代なんてものはありません!!」とか宣言する犯罪者がなぜか「社会人」と自称しているし、③で紹介した「何歳であれば~をしなければならない」というマウンティングだって、相手の事情を考えずに自分の所属する小さな世界がすべてだと思っている人間の発言である。

偉そうに社会や世間を語る大人だって、その程度の器なのだから、「社会は厳しい」「大人は怖い」などと過度に怯える必要は全くないのである。

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