「恋愛はしたくないけど結婚はしたい」と言ってお見合い婚を望んでも、恋愛から逃れられるとは限らない

前回は中年独身女性の交際を手掛かりにして、「結婚から親密性を切り離して、経済性のみを追求する考えは賢明なのか?」について考えてみた。

今日も同じような話をしたい。

・「恋愛はしたくないけど、結婚はしたい」と考えている人たち

このブログで何度も繰り返したことだが、「近代的結婚」と呼ばれる「従来」の結婚では、経済性と親密性を一致させることが必須であり、「社会が変化した後も、その条件が譲れないため、結果的に結婚そのものが困難になっている」というのが今の日本が直面している問題である。

このような結婚観は戦後に普及した比較的新しいものだから、それが日本人にとって唯一絶対の規範というわけではない。

そのため、私は必ずしも結婚に経済性と親密性を一致させる必要があるとは思っていないし、別に経済的理由のみを追求する人がいても構わないと思っている。

のだが、

「恋愛はしたくないけど、結婚はしたい」

と考えている人たちの話を聞いていると、どうも腑に落ちないことがある。

彼らの主張は

「愛情はいつか冷めるけど、経済性(お金)は絶対に裏切らない」

「恋愛を楽しみたいのではなく、安定した生活が欲しい」

というものである。

以前、書いたことの繰り返しになるが、「安定した経済生活を営むための結婚」とは、一人で生計を立てることができない女性が、稼ぎの多い男性と結婚して養ってもらい、豊かな生活を送る姿を想像するだろうが、それは一面でしかない。

日本企業の会社員といえば、私生活をかなぐり捨てて、会社に尽くす「会社人間(社畜)」が有名だが、彼らがそのような働き方が可能なのは、すべての家事労働を妻に任せることができるからである。

妻が家事や育児をすべて担ってくれなければ、モーレツサラリーマンのような働き方は成立しない。

噂話レベルなので、どこまで本当なのかは分からないが、大企業に勤めて、将来は幹部候補と目されている若手の男性サラリーマンは30歳までに結婚していなければ、出世コースから外されることがあるらしい。

「結婚という私生活が仕事と何の関係があるんだよ!!」と言いたくなるが、結婚することが昇進の条件とされている理由は、妻にすべての家事を押し付けることで、すべての精力を会社に向けることを期待しているのだろう。

このような理由で結婚したケースは、「夫が妻に経済的に依存している」と呼んでもいい。

しかし、なぜか、その動機が「経済性(お金)目当ての結婚だ!!」とバッシングを受けることはないが…

恋愛結婚とお見合い結婚は矛盾しない

経済生活重視の結婚をしたいと考えている人の中には「恋愛結婚」を目の敵にして、今は衰退した「お見合い結婚」に希望を託している人が少なくない。(恋愛や交際をすっ飛ばしていきなり結婚することは「いきなり婚」と呼ぶらしい)

「恋愛結婚が広がって人々が自由になりすぎたせいで、結婚相手に高望みするようになった!!」

「お見合い結婚があれば、自分と釣り合った相手と自然に結婚できたから、恋愛感情なんかなくても安定した結婚生活が送れたのに!!」

というのが彼らの主張であるが、はっきり言ってその理屈は間違いである。

なぜなら、恋愛結婚とお見合い結婚は矛盾するものではないからである。

あまり聞きなれないが、「アレンジ婚」という言葉がある。

これは当事者が結婚相手を選ぶのではなく、他人が見つけた相手と結婚することである。

かつて、商売を営んでいたり、それなりに格式のある武士の家では、結婚とはイエの繁栄のために行うものであり、誰と結婚をするのかは家庭の中で絶対的な権限を持っている家長(ほとんどの場合は父親)によって決められていた。

そのような結婚には、当日になって初めて相手と対面するということも珍しくなく、「相手への特別な感情」が結婚の決定打になることもない。

歴史的には雇用者層が増えて、個人が家から経済的な自立を果たすと、誰と結婚するかは自分で選択できるようになるため、アレンジ婚が衰退して、恋愛婚に取って代わられることとなる。

「他人に命令された相手と結婚するのか?」それとも「自分で選んで相手と結婚するのか?」

このような視点では、「アレンジ婚」と「恋愛婚」に対立軸が生まれるのかもしれない。

しかし、お見合い婚はアレンジ婚と違い、あくまでも出会いをセッティングされるだけであって、相手とお見合いをするかどうかは自由に決定でき、その後の結婚も本人が嫌なら断ることもできる。(=自分が断られる可能性がある)

すなわち、結婚に踏み切るためには「この人と結婚したい!」と自分の意志で選択することが不可欠であり、それは恋愛婚と全く変わらない。

実際に「出会ったきっかけはお見合いだったけど、交際を始めて相手を好きになった結果、結婚を決めた」という夫婦に「結婚のきっかけは?」と尋ねると、一人は「自分たちはお見合い結婚だった」と答え、もう一人は「恋愛結婚だった」と夫婦によって回答が異なるケースもある。

もちろん、「出会いはお見合いだけど、結婚を決めたのは相手のことが好きになったから」という形はどちらにも解釈できるため、双方の言い分にウソはない。

そのため、恋愛結婚とお見合い結婚は全く矛盾せず、この二つのどちらが優れているのかという議論に意味がないのである。

つまり、「恋愛なんて面倒なことはもうウンザリだ!!」と恋愛を放棄して、お見合い婚に逃避しても、結局は相手が経済的な理由だけで結婚に同意してくれるとは限らない。

私が思うに、恋愛婚とお見合い婚を対立させて論じている人は、「出会い方」に固執している気がする。

そして、出会いさえ与えてもらえれば、その後は自然に結婚できて、結婚後も無事に家庭が営めるものだと何の根拠もなく思い込んでいる。

要するに、「自分には異性としての魅力はないかもしれないけど、堅実な経済生活を営む能力はある」と信じて疑わないわけですね。(どこからその自信が湧いてくるのかは不明だが…)

・恋に落ちることだけが恋愛婚ではない

恋愛婚を毛嫌いしている人にあちがちな考えなのが、「恋愛とは一時の高揚感から生まれるが、相手に気を使い過ぎることで次第に気疲れし、結局は幻想だと気づいてすぐに冷めてしまうもの」というものである。

「それに対して、お見合い婚はキラキラした感情は生まれないけど、安定した生活を…」とでも言いたいのだろうが、恋愛婚とは恋人同士(特に未成年にありがち)のドキドキ感から交際が始まって、その延長として行うものだけではない。

恋愛婚とは相手に特別な感情を持つことから生まれるものであり、その特別な感情というのは、たとえば「純粋性」である。

この場合の純粋性とは、一緒にいることで生まれる安心感、「一緒におしゃべりをすることが楽しい」といった感情的な満足感、もっと簡単に言えば、「好きだから好き」という直感的な理由で維持される関係である。

このような関係は、かつてのアレンジ婚のように経済的、政治的な理由で結ばれるものではなく、その関係自体から得られる情緒的な満足感によってのみ結ばれるから「純粋性」と呼ばれる。

このようなマイルドな純粋さも、相手と一緒にいること自体に意味があるわけだから、そうした感情から生まれた結婚も「恋愛婚」と言える。

「恋愛婚」とは、何もお互いに恋に落ちて、時間をかけてデートを重ねて、ドラマチックなプロポーズをして、盛大な結婚式を行って結ばれるというようなものだけを指す言葉ではない。

「恋愛結婚反対!」

「お見合いの復活を!!」

と言って、恋愛結婚を目の敵にしているつもりの人も、このような情緒的な関係を否定しているとは限らない。

「『恋愛』という言葉はどうしてもギラギラしたイメージが食いついているから、あまり使いたくない」と考えている人(かくいう私もその一人だが)は、代わりに「親密性」という言葉を使うべきだと思う。

・親密性のない結婚とは?

このように「お見合い」は出会いがない人へ機会を与えてくれることには役に立つかもしれないけれども、その後は安定した生活だけを求めてドライな関係でとんとん拍子に物事が進わけではないため、「恋愛=時間と金がかかるだけの面倒なこと」と考えているの受け皿になるとは限らない。

それでもなお、「マイルドな親密性も要らない!」と言って経済面のみを求めて結婚したいと考えている人もいるだろう。

もちろん、そのような結婚を望むことは本人の自由である。

先ほど紹介した「アレンジ婚」だけでなく、前近代社会の農村共同体では、の働き手を確保する生殖手段として考えられていて、そこには愛情を含む親密性などまるで存在しなかった。

現代人の視点からすると、随分と人間味がなくつまらない関係のように思えるが、当時の人々は必ずしも不幸な生活を送っていたわけではない。

夫婦の関係は親戚や地域といった共同体の一部に過ぎず、結婚相手に特別な関係が求められたわけではないし、経済的に独立した生活を送る必要はなかった。

そのため、人生のお手本にするのはこの人、毎日おしゃべりをするのはこの人、性的な関係を楽しむ相手はこの人、というように、情緒的満足のすべてを一人の相手に求める必要はなかったし、結婚相手が自分以外の人間関係を生きがいにしても特に問題はなかった。

このように相手に親密性を求めない結婚も成立すると思う。

生殖の関係を経済性に置き換えて、前近代社会的結婚への回帰と思えば、恋愛を放棄して経済性のみを追求することはおかしなことではないのかもしれない。

それが「恋愛はしたくないけれど、結婚はしたい」と考える人たちの理想なのかもしれない。

・本気で親密性を失う覚悟はあるのか?

しかし、彼らが本当にそこまで割り切ったことができるのかは疑問である。

家庭から親密性を切り離すと、情緒的で面倒な人間関係を重ねることなく、お互いに経済的合理性を追求できるかのように思われるが、そのような家庭は「居場所」とは言えなくなる。

前近代社会では家族が唯一絶対の居場所ではなかったため、結婚相手に親密性を感じなくとも、居場所を与えてくれる人間関係などいくらでもあったわけだが、現代人が結婚に親密性を求めない場合は、同じように家庭以外の居場所を確保できるのだろうか?

そのような人が、わざわざ好きな相手もいないのに「結婚したい!!」などと思うだろうか?

その上、「相手に親密性を求めない」と言うのであれば、最低限の家庭生活を成り立たせれば、(犯罪でもない限り)相手がどんなことをしても口出しする権利はないわけだが、そんな夫婦関係に耐えられるのだろうか?

たとえば、休日は相手のことなど気にも留めず、仕事や友達を優先するとか、よく分からない宗教活動に参加するとか、アイドルのおっかけにハマるとか、性的な満足感を得るために風俗店に通う(もしくは働く)とか。

結婚相手がそのようなことを行っても、親密性を捨てて経済性のみを追求することを選んだ人間にその行いを咎めることなどできないはずである。

そこまでの覚悟があるのなら、「私は結婚に親密性など求めません!!」と宣言すればいい。

普段は仕事人間を気取って、家族のことなどほったらかしにしながら、「休みの日はゆっくりくつろいで仕事の疲れを癒してもらいたいよー」などとクソ甘ったれた「勘違いモーレツサラリーマン」などが典型だが、自分は相手の気持ちを汲むような面倒な人間関係はうんざりだけど、自分は相手にとって特別な存在であってほしいという身勝手な思いが透け見える。

ちなみ、このような人間は「経済的に養ってやっているのだから、自分は相手のことなど意に介さないが、自分はそれなりの尊厳を与えられるはずだ」などと傲慢な考えを持っているのだが、全家事労働を押し付けることはれっきとした経済的依存(=甘え)であり、その時点で、自分も経済的優位性を主張する根拠を失っている。

「結婚に情緒的な関係は必要ない。ただ、経済的に豊かになって安定した暮らしを送りたいだけ」

と考えている人は、本当にそこまで割り切った生活を送る覚悟があるのかをよく考えてもらいたい。

・今日の推薦本

結婚と家族のこれから 筒井淳也(著)

過去の記事でも紹介した結婚不要社会と並んで、結婚に関する知識を身に着けたい人におすすめできる本。

アレンジ婚とお見合い婚の違いや、恋愛婚の「純粋性」といった概念の説明に使用。

今回は取り上げなかった家事分担や税制、男女平等共働き社会に潜む意外な落とし穴などの見所も多数ある。