旅行は本当に時間と金の無駄遣いなのか?

ペンパルサイトでよく話題になることの一つが

「あなたは今までどの国に行ったことがありますか?」

というテーマである。

これは国籍、年齢、性別に関係なく聞かれることが多い。

ちなみに私が訪れた国は4ヶ国で、乗り継ぎの待ち時間の間に観光した国は2ヶ国なので、合わせると6ヶ国になる。

パスポートを取得したのが7年くらい前なので、そこまで多くはない。

目的もワーキングホリデーや留学の下見が主な目的だったので、純粋な観光が目的ではなかった。

そもそも私は国内、海外問わず、旅行には全く興味がない。

・旅行とはお金を払って疲れに行くこと?

おおよそ猫には見えない青いロボットが出てくる国民的アニメの副主人公が、友達から週末に旅行へ行くという自慢話を聞かされた後に、母親に「僕たちも旅行に行こうよ」と言ったところ「旅行なんて、お金を払って疲れに行くようなものでしょう!?」と返されたことがあるらしいが、私も同意見だった。

失礼極まりない話だが、職場の同僚が「今度の連休は家族と台湾へ旅行に行きます」とか「友達と23日で沖縄旅行へ行きます」と無邪気な笑顔で話す姿を見て、内心、見下していた。

「バカだなあ。 旅行なんかに行って、一体何が得られるの? 時間と金の無駄なだけでしょう?」

私が旅行を毛嫌いする理由は旅行好きな知人の影響もあるのかもしれない。

彼らは決して裕福な暮らしをしているわけではない。

それどころか借金をして、かろうじて生活を成り立たせている。

しかし、大好きな旅行だけはやめられないようで、毎年45回は飛行機や新幹線に乗って目的もなく遠出している。

本人たちは決して自分が浪費家だと認めないだろうが、その旅費と余裕はどこから出てくるのだろうか?

また、彼らが旅行のことを「自分へのご褒美」や「リフレッシュ」と呼んでいることも私は気に入らなかった。

旅行へ行く時は、自分たちがもてなされて当たり前だと思っているので、私はよくバス停や駅まで送り迎えをさせられていた。

単に送り迎えをするだけなら我慢できるのだが、「疲れて歩きたくないから、バス停の駐車場ではなくバス停の前まで車を出してくれ」だとか「まだ終電はあるけど、その電車が出発するのは2時間後だから、最寄り駅ではなく(車で片道1時間ほどの場所にある)乗換駅まで迎えに来てくれ」などと勝手なことばかり言っていた。

「お前たちに必要なことは「気分転換」ではなく、堕落しきった自分を変えることだろ!!」

と言いたくなったことは一度や二度ではない。

・私にはリフレッシュなんて要らない

彼らを見ていると、旅行とは人を堕落させるもののように思えた。

少なくとも私にはリフレッシュするための旅行など必要ない。

これは旅行に限った話ではない。

私は酒もたばこもギャンブルもスマホゲームも一切しない。

年間行事も記念日のお祝いも一切しない。

自分の誕生日さえも気づかないことも多い。

友達や恋人と遊びに出かけることもない。

仕事以外の時間は本を読む、英語の勉強をする、ブログを書く、そのためのネタ探しをして過ごす。

他人から見れば「つまらない生活」かもしれないが、特に不満はない。

私は「戦おうと思う強い気持ちがあれば、日々の疲れを癒すためのリフレッシュなど無くても、いつでも戦うことができる」と思っていた。

リフレッシュなんてただの現実逃避であるとさえ思っていた。

・実家にある写真を見てあることに気づく

この考えに一石投じるきっかけは数ヶ月前に帰省した時に起きた。

その時は(数少ない)地元の友人と数年ぶりに会う予定になっており、彼と最後に会って以降のできごとを分かりやすく説明するための写真を探していた。

その写真をパソコンやスマホに保存しているものの中から選んでいたのだが、私はその時、自分は他人に思い出を語れるような写真が一枚もないことに気づいた。

彼と最後に会って以降、外国には二度行ったことがある。(そもそも、地方出身の私にとっては東京に住んでいること自体が外国にいるようなものであるが・・・)

もちろん、そこで写真を撮ったことはあるし、その写真も残っている。

ただ、その写真は単に街の風景を記録した写真で、その時は誰と会って、どんなことをしていたのかというような記憶は全く残っていなかった。

言い換えれば、それは本やネットに載っている写真と同じであって、自分にとって特別な思い出のある写真ではなかったのである。

そこで私は、自分には人に語れるような思い出が全くないことに気づいた。

分かりきっていたことなので、自業自得と言われればそこまでだが、そんな現実を突きつけられた私はとてつもない空虚感に襲われて、ふと本棚に並んでいる昔の写真を手に取ってみた。

そこには、私が子どもの頃に家族と一緒に行った旅行や日常生活の写真、友達と一緒に遊んでいる写真があった。

その中で、一番新しい写真は今から10年以上前、私が高校生の時に撮った写真だった。

ちなみに、私が高校生の時の写真はその時に撮られたものだけで、中学生の時に撮られた写真も3回分ほどしかなく、その他の大部分は私が小学生以下の時に撮られた写真だった。

・切り捨てたものは「無駄」だけではなかった

よくよく考えてみると、たしかに私は中学生の頃から、誰かと旅行をしたり、特別なことをやったりした記憶はほとんどない。

一方で、小学生の時の記憶は昨日のことのように思い出せる。

これは私の記憶力が優れているという意味ではなく、その間の約15年間は何の思い出も無い位にスカスカだったということだろう。

プロスポーツ選手や学歴エリートが中学生から20代後半の期間を勉強やスポーツに専念して、旅行へ行ったり、友達と遊んだりと楽しいことをした記憶がないというケースは珍しくないかもしれない。

しかし、私には彼らのように何か一つのことに専念していたわけではないし、その対価として、人に誇れる勲章を得たわけでもない。(道を踏み外して暴走族や反社会組織に入ることもなかったことが、せめてもの救いだが・・・)

20代前半の頃から、一日に23時間を英語の勉強に費やして、英検の準1級を取得し、それを人に話すと「凄いね」と言われることはあるが、別に語学で生計を立ているわけでもないし、外国に住んでいるわけでもない。

念のために言っておくと、私は「あの時にああすればよかった」とか「自分の人生はこんなはずじゃなかった・・・」というような後悔は一切していない。

だが、最近は、思い出がスッポリと抜け落ちているここ十数年の間に自分がやってきたことは何だったんだろう?と思うことがある。

「私は何のために戦い、何を恐れ、何を得て、何を失ったのか?・・・」

その答えはまだ見つかっていない。

それに私の知人のように借金をしてでも旅行をやめることができない人たちが正しいとも思えない。

だから、私のようにならないために「旅行に行って思い出を作りなさい!!」とか「家族や友達とできるだけ一緒に過ごしなさい!!」と説教をすることはできない。

ただ、私は「無駄だ!! 無駄だ!!」と言って、人が生きていく上でかけがえのないものも一緒に切り捨ててきたのかもしれないということは分かったような気がする。

旅行や、友達との遊び、恋人とのデートは単なる現実逃避ではなく、新しい世界を見つけたり、親しい人との絆を深めたりして大切な思い出を作ることができて、時間が経つと、その体験がかけがえのないものであったことに初めて気づくのかもしれない。

スポンサーリンク