ここ最近いつも冒頭で触れているが、私は今月限りで今の仕事を退職することになっている。
1年が終わるこの季節に職場を去ることになると、いろいろな思いがこみ上げてくるが、次の仕事も決まらないまま年を越す可能性も高まってきた。
勤務開始は1月の中旬、もしくは2月からでも構わないので、次の職場が確保できていれば、無職期間を満喫することができるが、仕事の当てがない中で年末に突入すると、年末年始の休暇に恐怖を感じる。
というわけで、「年内限りでの退社」は区切りこそ良いものの、再就職のことを考えるとあまり賢明とは言えない。
実は2年前も年末に退職することになり、次の仕事に就くまで2ヶ月半もかかった。
年末限りで契約を切られることは想定通りだったため、特に焦りも驚きもしなかったが、クビ切りの選定方法には納得できず、当時は腹立たしい思いで職場を去ることになった。(その経緯についてはこちらをご覧いただきたい)
だが、2年も経つと、当時の職場や同僚のことが懐かしくなってきた。
今日はその職場と、忘れられない3人の同僚の話をさせてもらいたい。
・左遷先で親しくなった女性
その仕事は3ヶ月半の短期の仕事で、私が配属されたのはデータ入力を行う部署だった。
これは自分で希望したわけでなく、勤務開始日に同時入社のスタッフ10名全員がたまたまこの部署に割り振られることになった。
単調な作業であるが、そんなに難しい仕事ではなかったため、滑り出しは順調だった。
しかし、勤務開始から1ヶ月が経過した頃、トラブルが発生し、その対応のための人手が必要となったことで、私ともう一人の派遣社員が移動することとなった。
その際、一緒に左遷されたのが、カワハラ(仮名)という当時45歳の女性だった。
彼女はこのブログでも一度だけ、この記事で登場したことがある。
その部署は私たち2人と、電話班から引き抜かれた2人、そして班長である職員の5人でスタートした。
私たちの業務は契約者に確認の電話をかけることと、掛けられてくる電話への対応である。
電話班からやって来た2人は内容が異なるとはいえ、電話業務に慣れているため、初回からスムーズな働きぶりだったが、私とカワハラの2人は慣れない業務に苦心していた。
私は自分が左遷されたことを恨んだ。
「他の奴は気楽なデータ入力だけをやっているのに、何で私とカワハラだけは面倒な電話業務をやらなければならないんだ!?」
ところが、左遷先の仕事は予想を上回るペースで進み、当初は1ヶ月程見込んでいた仕事量も2週間で終了した。
電話班からやって来た2人は2週間で元居た部署へ戻り、班長も他所の部署と掛け持ちで働いていたため、室内では私たちが2人だけで過ごす時間が増えた。
期限まで窓口を設置しておく必要があるため、部署を閉鎖することはできないが、仕事はほとんどなかった。
たまに班長から雑用を頼まれたが、それもすぐに終わるものであり、残りの2週間は1日の実働がおよそ10分となり、私とカワハラはほとんど無駄話をしながら過ごすことになった。
左遷当初は私とカワハラは左遷されたことの不満を中心に話しをしていたが、気持ちに余裕ができたことで、次第にお互いのこれまでの仕事や普段の生活の話もするようになった。
彼女は生まれも育ちも東京出身で、当時は母親と二人暮らしで小田急線沿いにあるのどかな場所で暮らしていた。
英語が得意で、イギリスで働いていた経験もあった。
日本に戻ってからも、外資系の会社で受付の仕事をしていたこともあるらしい。
また、派遣社員として事務の仕事に就いていた期間も長く、英語の使用経験も相まって、私にとっては将来の道を考える上で重要なヒントもたくさんくれた。
左遷先の部署は予定通り、1ヶ月で稼働終了となり、私たちは以前と同じデータ入力の業務へ戻ることになった。
「当初は嫌でしょうがなかったが、また、ここに戻ってくるのも悪くない」
これが私と彼女で一致した意見だった。
彼女は同じ派遣会社、勤務開始日も同じだったが、左遷前は席が離れていたため接点が全くなく、名前も知らなかった。
そんな彼女と親しい会話ができるまでになったのは左遷のおかげだった。
・今度も同じ会社で働くことになるのか?
就業期間中に、カワハラと同じくらい親しくなったのが、フジモト(仮名)という女性だった。
彼女も、私やカワハラと同じ派遣会社を利用しており、作業フロアも同じだったが、部署が違うため、普段の業務中に顔を合わせることはなかった。
というよりも、退職の1週間前まで、彼女とは全く面識がなかった。
そんな彼女と親しくなったのは、退職1週間前に、派遣会社から次の職場として、同じ派遣先を紹介されたからである。
職場見学は私とフジモトと営業担当の3人が現地で待ち合わせることになった。
待ち合わせ場所で、初めて彼女と顔を合わせて、最低限の挨拶をする。
見たところ、彼女は40代か50代の女性だった。
普段は顔を合わせることがなかったためか、私は今までこの人が同じ部屋にいたことに全く気付かなかった。
面談が終わり、現地で解散になったが、私たちは同じ駅へ向かうことになり、途中でいろいろと話をした。
駅に着いてからも、すぐに電車に乗らず、10分くらいお互いの出自や、これまでの仕事について話をした。
彼女も出身は東京で40代半ばの独身、両親と3人で暮らしていた。
カワハラの時もそうだったが、生まれも、育ちも、性別も自分とは全く違い、なおかつ年が離れた人の話を聞く機会は滅多にないため、とても新鮮である。
別れ際に彼女がこんなことを言った。
「あそこで一緒に働けるといいね」
それを聞いた私は、同意する返事をしたが、彼女と別れた後に不思議な気持ちになった。
たしかに、彼女と同じ職場で働ければ心強いかもしれないが、よくよく考えてみると、私たちは今日まで毎日同じ職場で働いていたではないか…
今まではそのことを何とも思わなかったのに…
何だろう、この不思議な気持ちは…
果たして、私たちは翌年から(も)同じ職場で働くことになるのだろうか…
…と、彼女の手前、仕事に採用されることを望む発言をしたが、実のところ、私はこの仕事に採用されないことを祈っていた。
なぜなら、この職場で働くことになると、時給が1750円から1300円まで落ちることになるからである。
これでは事務職に就く前に逆戻りである。
それなら、採用されずに失業保険を受給しながら、のんびりと他の仕事を探した方が得策である。(※:この職場では雇用保険の加入期間が半年未満だったが、それ以前に働いた仕事の加入期間と合算すると支給基準を満たしていた)
だが、派遣会社からの紹介を断ると、雇い主都合での解雇ではなくなり、3ヶ月の待期期間が発生してしまうため、派遣会社、もしくは派遣先が採用見送りという形で話が流れることを期待していた。
この私の思いが通じたのか、後日、採用見送りの連絡が入った。
そのことは希望通りだが、その結果、彼女と共に働き続けることはできなくなった。
彼女の合否は分からなかったが、私がこのまま何も言わずに去ることは悪印象を与えると思い、一応結果は伝えることにした。
しかし、なかなか会う機会がない。
フロアは同じだが、最寄りの出入口が違うため、勤務中はおろか、休憩時も会うことはなかった。
このままではまずいと感じた私は勤務最終日の前日に彼女の机に置手紙を残すことにした。
大き目の付箋に書いた簡易的なメモだったが、何も残さないよりマシでと思い、私が不採用になったことと、彼女のこれからの活躍を祈るメッセージを添えた。
すると、翌日のその日の帰り道で偶然彼女と出会い話をすることになった。
彼女も私と同じく不採用になったのだが、てっきり私は採用されたものだと思い、自身の結果を伝えづらかったようだが、私の置手紙を見て、「自分だけではなかった」とホッとしたらしい。
結局、彼女と言葉を交わしたのは職場見学へ行った日と、この日の2日だけだったのが、それでも、私にとっては思い出深い存在になっている。
・左遷直後の噴火を抑えられた理由
フジモト以上に話す機会は少なかったが、未だに憶えており、その職場で出会った人の中で最も感謝しているのがヤマダ(仮名)という女性である。
彼女も同じ派遣会社からやって来た人物で、勤務開始日も同じだったため、同じ部署に配属され、初日の研修で席が隣になった。
その後は、別の班に振り分けられたため、話す機会は多くなかったが、彼女は顔を合わせる度に、声をかけてきた。
といっても、最低限の会話をするだけで、特に親しい会話をしたわけではなかった。
私も自分から話しかけることはなく、彼女の話に「はい」「そうですね」と答えるだけだった。
そのため、カワハラやフジモトのように、住まいや出身地、年齢などの細かい情報は知らない。
そんな彼女に感謝するきっかけとなったのは、カワハラと共に他部署へ飛ばされた時のことである。
後に、左遷されたことは幸運だったと思えるようになったが、当初は異動に納得できず、次回の契約更新の見送りも検討していた。
特に、資料運搬のために左遷前の部屋を訪れた際に、かつての同僚が楽な仕事を続け、それも隣の席の人と楽しそうに談笑している姿が憎らしくてしょうがなかった。
そんな時、彼女だけは
「突然、いなくなったから驚きましたよ」
「今の仕事は大変ですか?」
と気にかけてくれていたのである。
彼女にとってはただの社交辞令なのかもしれないが、噴火寸前だった私は彼女の言葉があったからこそ「自分を見てくれている人がいるのだから、自棄を起こさずにしっかりしよう」と思って、耐え忍ぶことができた。
その後、同じ部署に戻り、再び彼女とも同じ部屋で働くことになったが、彼女とはカワハラやフジモトのように親しい話をしたことは一度もなかった。
しかし、私があの時、嫌な業務を押し付けられたことの恨みと、左遷された孤独に耐えることができたのは、ヤマダが私のことを気にかけてくれていたからである。
最終日の業務が終了した後、私は彼女の下を訪れて、左遷直後の心境と、彼女の言葉に励まされたこと、この日まで無事に仕事を続けることができたのは彼女のおかげだと思っていることを伝えた。
それを聞いた彼女は驚きながら、その気持ちを伝えてくれて嬉しいと言ってくれたが、同時に「そういうことはもっと早く言ってくださいよ。てっきり『おばさんの一方的なお節介は迷惑だったかな?』だと思っていたんだから…」とも言われた。
確かに、最後の最後ではなく、もう少し早く彼女に感謝の意を伝えていたら、カワハラやフジモトのような親しい関係になれたかもしれない。
だが、フジモトの時と同様に、彼女に私の想いを伝えたことは、私にとっても彼女にとっても良かったのだと思う。
そうしなければ、彼女の言う通り、彼女はあの時の行動をずっと後悔していたかもしれないから。
今日紹介した3人は、私と同じく2年前の年末で勤務が終了した。
それ以来、彼女たちとは会っていない。
彼女たちだけでなく、短期の派遣ではたくさんの人と出会った。
あの人たちは一体、どうしているだろうか?
当時と同じく、年末で退職することになった今、改めてそんなことを想う。
まあ、幸か不幸か、今の職場にはそのような感慨深い相手はいないけど…