・ワーキングホリデーへ行かなかった理由
最近は海外の話にすっかりご無沙汰だが、これまで何度か、かつてオーストラリアへワーキングホリデーに行くことを計画していたという話をしたことがある。
これは今から5年ほど前の話である。
私には夢があった。(←なんだか、キング牧師の言い方みたい)
それは、ワーキングホリデーでオーストラリアの田舎町に滞在し、他国からやって来たワーホリ仲間と農作業をすることである。
別に農業に興味があるわけでも、セカンドビザが欲しいわけでもないが、同じような境遇の仲間たちと生活を共にしたかった。
私がそうであったように、海外へ出ている人間は自国の生活に不満があったり、疑問を持っているに違いない。
そんな話を毎晩宿舎で語り合いたかった。
そして、休日は仲間たちと共に遊びに出かける。
私はそのような期待に胸を膨らませていた。
しかし、私はビザを取得し、航空券の購入まで済ませたものの、結局、ワーキングホリデーへ行くことはなかった。
その理由とは・・・
出発の1ヶ月前に肺に穴が開いて、医者から少なくとも1年間は飛行機に乗ることを控えるよう警告されたからである。(「自然気胸」という病気だったらしい)
ちなみに多くの海外旅行保険では渡航先で既病が再発した時の治療費は保険金の支払い対象外である。
もしも、違う箇所の病気であれば、強行することも考えた。
持病が悪化したら、すぐに帰国して日本の保険に加入して病院へ行けばいいだけだから。
だが、私が患った箇所はよりにもよって肺である。
医者の助言を無視して飛行機に乗る
↓
機内で肺が破れる
↓
オーストラリアに到着するも、現地では病院で治療を受けられない
↓
帰国しようとするも、そんな状態では飛行機には乗れない
↓
治療を受けることが出来ないまま、海外で苦しみ続ける(最悪、死ぬ、もしくは高額の医療費を自己負担で支払う)
人よりも無鉄砲であることを自認している私でもさすがにこんな危険は犯せなかった。
というわけで、オーストラリアへワーキングホリデーに行くことは断念した。
・初めて海外に憧れた日
私が本格的に英語の勉強を始めたのは、20代前半の時である。(中学生の時じゃないのか!?)
今日は当時の詳しい経緯と事情は省略するが、その時に初めて「英語を覚えるために時間を費やしてでも海外へ行く!!」と決心した。(追記:その時の話はこちら)
今でもその時が人生の転換点だと思っている。
それまでは海外への興味など全くなかった。
かつての私が海外に対して抱いていたのは「怖い」「言葉が通じない」というような負のイメージしかなかった。
今でも放送されている「世界○○」という番組があるのだが、私が子どもの頃は今よりも刺激が強く、毎週のように、海外の凶悪な事件や悲惨な事故が放送されていた。
それから、日本のゴールデンタイムで放送される洋画などは、大抵のものが銃を撃ち合ってたくさんの人が殺されるアクションものである。
そのようなテレビ番組を浴びるように見ていた私にとって、海外に対する感情は無関心ではなく恐怖に近かった。
生まれも育ちも地方で、外国の人などテレビの中の存在でしかなかったというのも大きな理由だった。
当然、中学校で習う英語の授業もろくに学ぼうとせず、テストの点数も30や40点程度で、提出物加点によりかろうじて成績表も5段階評価で3を取れる程度であった。
3年になると完全についていけなくなり成績は1まで落ちた。
そんな様子だったため、自分が海外へ行くことはおろか、飛行機に乗ることすら想像していなかった。
だが、実はその前に一度だけ、海外に憧れたことがあった。
もう10年程前の話だが、当時は素人が撮影したハプニング映像をひたすら集めて放送する番組が数多く放送されていた。
それらの番組のひとつに、1分間で自分の頭を足で何回蹴ることができるかという世界記録に挑戦する男が登場した。
彼は当時35歳のアメリカ人で、肩書は自称映画プロデューサー兼プロレスラー(実質は無職)、日々公園や広場に仲間たちと集い、様々な(下らない)ことにチャレンジして番組の出演者や視聴者を魅了していた。
そんな彼の続報を伝えるVTRが届いたとのことだったが、その中に同番組に以前も出演していた映画俳優を夢見て日々トレーニングに励む青年(当時23歳:無職、ちなみに既婚者で子どももいる)が映っていた。
「もしかして、彼らは知り合いなのか?」
そんな疑問からスタッフが現地へ飛びリサーチを行った。
・おバカ映像を見た時の感情
やはり、彼らは近所に住む顔なじみで、普段から一緒に活動することが多かったらしい。
そして、これまた同番組で以前も登場していた、トリッキーな作戦を企てたものの、その策に溺れて自滅した(おバカな)アマチュアボクサーも近所に住む知り合いということが判明した。
というわけで、番組が誇るアメリカ人おバカ3人衆が揃い踏みする夢のスリーショットが実現。
そのVTRが流れるとスタジオの出演者が腹を抱えて大笑いし、視聴者も笑いの渦に巻き込まれていたことだろう。
しかし、その番組を見ていた私には、笑いとは別の感情が生じていた。
「大人になっても、仲間と楽しくあんなことができるなんて羨ましいんだ…」
彼らだけではない。
その番組は世界各国から映像を集めているのだが、出演回数はアメリカが圧倒的に多かった。(実際に番組中に登場国別の数字が出ていた)
司会者がアメリカにゆかりのある出演者にその理由を尋ねると、彼女はこんなコメントをしていた。
「アメリカの田舎町は日本と違って、カラオケ店やゲームセンターのような娯楽がないから、自分たちで楽しめることを考えるしかないのでは?」
たしかに言われてみれば、彼らが活動している場所は自然や広い土地に恵まれた田舎であることが多い。
当時の私も地方に住んでいて、友人たちと共に時間を過ごすことが多かったが、ほんの数ヶ月前に彼らが就職したことで、だんだんと疎遠になっている気がした。(結果的に彼らと再会できたのは5年後のことだった)
そんな中で、彼らアメリカ人が仲間たちと楽しくバカなことをやっている姿を見て、少し前の自分を重ね合わせていた。
たとえ、職に恵まれなくとも、楽しい娯楽などなくとも、仲間たちで寄り集まって、日々の生活を楽しいものにすることができたら、それはなんて素敵な日々なのだろう。
私が彼らに抱いた感情は、子どもの頃にテレビでスポーツ選手を見ていた時の憧れに近いものだった。
「自分もあの輪の中に入りたい」
「アメリカへ行けば、そのような生活ができるのではないか…」
これが私が初めて海外に憧れた時の話である。
・本当に欲しかったもの
当時の私は自分と同い年の人が大学に通っている年齢だった。
そして、2人の友人が就職して疎遠になったことで、他の人たちはどんどん成長しているのに自分だけが周囲から置いて行かれている気がした。
このままでいいのか…
自分も何者かになれなければ…
そう思ってはいたが、当時の私はそこから前へ進む術など持ち合わせていなかった。
だが、そんな大層な話ではなかった。
私はただ誰かの隣に居たいだけだった。
どこへ行くとか、何をするとかの間柄ではない。
たとえ生活の場が違っていても、会いたい時に会うことが出来て、ただ一緒にいてくれる仲間が欲しかった。
しかし、たとえ地元であっても、この社会ではそのような生き方が難しいことも察していた。
その時から社会への見切りをつけて、英語の勉強を始めていれば良かったのかもしれないが、当時は付き合いがあった友人たちと辛うじてメールで連絡を取り合っていたため、「もしかしたら、以前のように…」というささやかな希望が邪魔をしていた。
そのため、英語を覚えて海外へ行くと決心したのは1年半程後になってしまった。
英語を学ぶことで多少の気を紛らわすこともできたが、それまでの1年半は本当に先が見えない暗闇の中で彷徨っている気がした。(その時の話はこちら)
結局、初めて海外に憧れた時は、人生を変えるほどの大きな変化が起きたわけではなかった。
だが、テレビの中で躍動するアメリカ人に勇気付けられたことが、この男の志に共感することにつながり、その後のブログ運営に発展したことを考えると、あの時の経験は決して無駄ではなかったと感じている。