「伝統的で温かいひとつの家族」というウソ

1ヶ月前に、地元へ戻って就職、結婚することをしつこく勧める元同僚と決着をつけに行くという記事を書いた。

その記事の後編に書いた、彼に突き付けるつもりだった言葉を覚えているだろうか?

「ここにはあんたが思い描いている、命に代えてでも従業員の生活を守ろうとする人情味あふれる経営者も、伝統的で温かいひとつの家族のような絆もすでに存在しないんだよ!!

今でも、この言葉は間違いだと思っていない。

彼は私が地元に戻って正社員として働けば、結婚して家族を持つことができて、地域の仲間と共に幸せに暮らせると思い込み、それをしつこく私に強要しているのだが、そんな伝統的で温かいひとつの家族や地域の絆など私の地元には存在しない。

ただし、「~すでに存在しないんだよ!!」という表現では、まるで「かつてはそのような温かい絆が実在した」かのような言い方になっていることに気付いた。

今日はその誤解を解くための話をしたい。

・二つの時代の家族観が入り乱れたデタラメな概念

私の元同僚に限らず、他人に結婚をしつこく勧める人は「家族」に対してノスタルジーな幻想を持っている。

愛する人と共に営む家族。

困った時に助けてくれる家族。

そして、そのつながりは家庭内にとどまらず、地域や、親戚にも連鎖して、たくさんの仲間に囲まれて幸せな人生を送る。(しかも、なぜか生まれ育った地元で家庭を築くことにこだわっていることが多い)

人は結婚して家族を持ってこそ一人前であり、結婚は人生に大きな意味をもたらしてくれる。

彼らはこのような家族像が日本の「伝統」だと疑わないのだが、この「伝統」という言葉が非常に悪質なのである。

なぜなら、その「伝統的で温かいひとつの家族」という考えには、親、兄弟、親戚のような大勢の親族に囲まれて暮らすという文字通り「ひとつ」の家族という意味と、「誰もが同じように結婚して自分の家族を持つ」という意味での「ひとつ」の家族という異なる家族観が都合のいいように混在しているデタラメな概念だからである。

(この説明では大半の方が「何を言いたいのかよく分からん」と感じるかもしれないが、選択的夫婦別姓を通して見ると分かりやすくなる。詳しくはこちらの記事をご覧いただきたい)

・好きな人と結婚できることは当たり前ではなかった?

1年ほど前に書いた記事でも紹介した結婚不要社会(著・山田昌弘 朝日新書)という本を読むと「結婚」が社会の中でどのように位置づけられ、どのように変化していったのかがよく分かる。

私たちが「結婚」と聞いて思い浮かべるものは「近代的結婚」と呼ばれ、それは日本では戦後に普及したものである。

「近代的な結婚」の特徴は次の通りである。

経済的特徴:夫婦で独立して共同生活を営む

心理的特徴:相手に親密性を感じる

排他性

性別役割分業

永続性

・皆婚

近代的結婚の経済的特徴は親から独立して新しい家族を形成して、夫婦で子どもの養育を行うことにある。

そして、結婚する相手は親密性は感じる相手でなければならない。

親密性とは自分の存在を承認してくれて、性行動や恋愛感情などを含めて、お互いを心理的に満足させる仲の良い関係のことである。

結婚するためには、まずこの2つを一致させる必要がある。

要するに、お互いに好意を持つ相手と一対一で番い(つがい)となって、親元を離れ、共同生活を営み、子どもを育てることである。

番いになるのだから、貞操の義務が生じて結婚相手以外の人と性的な関係を持つことが禁じられる。

経済面では、配偶者(結婚相手)と、自分たちの間に生まれた子供に経済的責任を持たなければならない。

一方で、それ以外の人に経済的責任を持つ必要はなく、逆に他人からの経済的支援を得られなくなる。

このように、結婚では心理的にも経済的にも排他的な力が発生する。

そのような夫婦だけで独立した生活を営む必要がある家庭では、男性が外で働いてすべての生活費を稼ぎ、女性が家事・育児などのすべてのケア労働を担う性別役割分業制が生まれる。

また、相手は自分の存在を肯定してくれる特別な人であり、お互いの愛情が一生続く相手でなければならない。

実際は、日本で結婚する人たちの3分の1は離婚しているようだが、そんな彼らも、結婚する時はお互いの関係が一生続く永続的なものだと思っている。(たぶん)

それから、「結婚なんてしたくない!」「一人で暮らしていく方がいい!」と言っている人たちも「結局は結婚するものだ」と思われている。

これらの特徴は今考えると、ごく当たり前に感じるかもしれないが、これは日本では戦後になって普及した比較的新しい形態である。

当然、「伝統的」でもなければ、生物として自然で、無条件に正しい姿というわけでもない。

近代社会以前の「前近代社会」では、好きな相手と一緒に共同生活を送り、子どもを育てるための結婚は当たり前ではなく、結婚は夫婦以外の要因によって左右されていた。

たとえば、商店のような家族が経済的基盤であるイエでは、家業を次世代へ継承するための手段として結婚が用いられていた。

それは親(実家)の都合であり、そこには本人たちの意志は全く関係ない。

そして、親の商売を継ぐわけだから、結婚した夫婦が独立して家計を営む必要もなかった。

これは、(この記事で紹介した)別の本で取り上げられていた話だが、農村共同体の中の結婚も似たようなものである。

世帯ではなく地域単位で生活を営む農村共同体では、結婚とは生殖の手段に過ぎず、そこに当事者同士の愛情など必要ない。

当時は今のように住居の移動や職業選択の自由などなく、生まれた地域で一生を過ごさなければならなかった。

もしも、村の跡取りとなる子どもが生まれなければ、将来の労働者がいなくなり、村そのものが消滅してしまう。

ご近所の世話焼き婆さんがしつこく結婚することを勧めていたのは、決して個人のお節介でやっているわけではなく、村の若い衆が子どもを作ってくれないと、後々自分たちの生活が破綻してしまうからである。

このような社会で行われる結婚は性関係こそ排他的かもしれないが、生まれた子どもは地域のみんなの子どもとして育てられた。

このように、前近代社会において、結婚とはあくまでも親戚や地域といった共同体の中の一つの営みに過ぎず、愛情で結ばれることや、独立した家庭を持つことを意味しなかった。

・愛情も独立もない夫婦は不幸なのか?

相手を選ぶ自由がなく、普段の生活も自分たち以外の人々に介入されるため、近代的結婚の視点に立つと、前近代的な結婚は耐えがたい生活のように見える。

しかし、当時の人々が必ずしも不幸な人生を送っていたわけではない。

夫婦なんてものは地域や親族に包摂された一つの単位に過ぎず、そこに排他的な圧力は存在しない。

子作りのための性関係は排他的なものだったかもしれないが、独立した生活を営む必要はないし、そこに居場所や生きがいを感じたり、一人の相手にすべての情緒的満足を求める必要もない。

自分のアイデンティティは宗教や共同体で得て、楽しくおしゃべりする相手はこの人、性的満足の相手は別の人というように相手が全然違ってもかまわない。

そもそも、イエ、宗教、コミュニティで経済的な安定と心理的な保障を得ることができるのだから、必ずしも結婚する必要はない。

独身であっても、親族が面倒を見たり、お寺や修道院に入ることで安心して生活を送ることができる。

このように前近代社会とは、人々がよく悪くもしがらみの中で生きている社会であり、そこには生涯にわたって居場所があった。

たとえ、立派に経済的自立を果たさなくても、結婚なんかしなくても、文字通り、「みんながひとつの家族」だったのである。

結婚に幻想を持ち「伝統的で温かいひとつの家族」などと口にしている人は、誰もが親密性のある相手と結ばれて、自分たちの家庭を築く近代的家族と、前近代的な不自由を感じながらも地域や親族に包摂される温かい共同体的なつながりを都合のいいように混同している。

・社会の近代化と結婚の変化

今回の記事の目的は「伝統的で温かいひとつの家族」などという手前勝手な妄想を抱いている人間のウソを暴くことなので、この記事はここで終えても問題はないのだが、せっかくだから、もう少し話をさせてもらいたい。

社会が近代化して、家業や農業を継ぐのではなく、被雇用者として働く人が増えると、親族間の絆も地縁に基づく絆も徐々に衰退する。

近代社会では前近代社会のように親や地域や縛られることはなくなり、結婚相手を自由に選び、自分たちの家庭を持つことができるようになった。

しかし、それまで個人を支えていた親戚や村の助けを当てにできなくなり、家族以外で生活を保証してくれる存在を失ってしまった。

そのため、近代社会的結婚では一人の相手に生活のすべてを依存することになる。

分かりやすいのが経済面である。

「経済的に依存した結婚」と聞くと、一人で生計を立てることができない女性が、男性に養ってもらおうとする姿を想像するが、それは違う。

当時のサラリーマンといえば、一人の稼ぎで家族全員を養うために私生活をかなぐり捨てて、会社のことしか考えていない会社人間(社畜)が有名だが、彼らがそのような働き方が可能だったのは、あらゆる家事労働を妻に任せることができたからである。

妻が銃後の守りとして家事や育児をすべて担ってくれなければ、モーレツサラリーマンのような働き方はできない。

つまり、彼らは結婚することによって仕事の生産性を高めることが可能になるのである。

このような家族形態は、妻が夫に経済的に依存しているだけでなく、「夫も妻に経済的に依存している」と言える。

近代社会では、結婚が経済面だけでなく、心理面でも一人の相手に依存することになる。

「存在論的不安」という言葉がある。

これは「はたして、自分はこれでいいのか?」とか「自分は一人ではないのか?」といった漠然とした不安のこと。

生涯にわたって居場所があった(というよりも、縛られていた)前近代社会では友人や知人が自然に与えられて、よその世界を目にすることもなかったため、このようなことに悩む必要はなかった。

しかし、束縛から逃れ自由を手にすることができた近代社会では、そのような相手は自然に与えられるものではなく、自分で探し出す必要があり、親密性、恋愛感情、性的満足といった情緒的満足をすべて一人の相手に求めることになる。

というわけで、近代社会では恋愛結婚にならざるを得ない。

お見合い結婚と恋愛結婚を区別する考え方もあるが、お見合い結婚だって、断る自由はあるし、相手に情緒的満足を求めることになるため、近代的な恋愛結婚とは全く矛盾しない。

・「誰もが結婚できる社会」の影

このように近代社会では結婚が不可欠になった。

結婚しなければ、自分一人で生活費を稼ぐ上に、家事もしなくてはならないし、子どもも持ちにくいし育てにくい。

心理的にも自分を承認してくれる相手がいないから常に「さみしい」思いをすることになる。

自分を受け入れてくれる相手がいなければ居場所もいきがいも得ることができなくない。

質の悪い病気に取りつかれたように二言目には「結婚しろ!! 家庭を持て!!」と言っている人はこの時代のイデオロギーに基づいているのだろう。

とはいっても、これは(経済的にも心理的にも)依存する対象が共同体から夫婦へと変わっただけで、個人が自立したわけでもなんでもない。

現代では、のぼせ上ったボケ老人が「俺たちが若い時は収入が低くても、結婚して家族を養っていた!! それにひきかえ、今の若いもんは~」などと寝ぼけたことをほざいているが、当時が結婚しないことが大きなハンデを負う社会であったため、それは当たり前のことであり、今の時代にあえて結婚という選択をすることとは全く意味が違う。

「昔は誰もが結婚できた」

高度経済成長時は97%の人間が結婚できたこともあり、その言葉は事実であろう。

しかし、実際は地域の共同体や親族集団が徐々に機能しなくなった結果、結婚しなけれな人並の生活を送れなくなったことが原因であり、そのような社会を肯定することなどできるのだろうか?

少なくとも、地域や親戚集団による扶助を否定することで発展した近代家族を規範としている人間が「温かいひとつの家族」などという言葉を口にするのはお笑いである。

ちなみに、「近代社会では地域や親族の支えがなくなった」とは言ったものの、それは本人の意志に反して消滅しただけでなく、独立して家庭を持った方が得だから、あえてそのような共同体を抜けて、核家族を作ることを選んだ人たちに引き起こされた面もある。

前近代的家族では困った時は親戚や地域の仲間が面倒を見てくれたが、逆に相手が困っている時は自分が支えなければならないことになる。

社会が成長しており、大した能力のない人間でも恵まれた給料の仕事に就くことができた場合、コミュニティの中で生きるよりも、自分たちの家族だけで独立した営みを送る方が(自分たちは)豊かな暮らしを得ることができる。

皮肉なことだが、皆婚社会とは、村や親戚の支え合いを否定し、自ら絶つことで実現できた面もある。

以前、日本で出稼ぎをしているフィリピン人ホステスの話を聞いたことがある。

彼女は日本で何年も働いて、すでに母国で立派な家を建てることができるだけの金額を仕送りしているが、家族の暮らしは一向に豊かにならない。

それもそのはず、彼女の実家には仕送りの話を聞きつけた多くの親戚が集まり、そのお金を使いこんでしまうため、彼女は実の両親だけでなく、親族全員の生活費まで負担することになっていた。

そのため、彼女の両親や兄弟は全然豊かにならない。

その話を聞いた私は「そんな堕落した親族なんて切り捨てて、本当に大切な人(=親、兄弟)にだけお金を渡せばいいじゃないか!!」と言いたくなった。

おそらく、次々に実家を出て自分たちの家庭を作っていた時代(ほぼ全員が結婚できた時代)の日本人も、その時の私と同じ考えの人が大勢いたのだろう。

誰もが結婚できた、そして結婚しなければならなかった社会とは全然温かいものではなく、多くの人との絆を捨てて、各々が内向きで排他的な家族を形成する悲しい時代だったのではないだろうか?

まあ、実際は1950年代初頭から1970年代中盤の間は、人口学的特殊性により核家族の増加と子どもが親と同居して老後の世話をすることが全く矛盾しなかった特殊な時代だったようだが…(訂正記事はこちら

次回へ続く

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