
今年は敬老感謝の日が9/21となった影響で、9/23の秋分の日に挟まれた9/22も祝日となった。
そのため、カレンダー通りの勤務をしている人は5連休となっている。
普段は仕事や家事に追われて自由な時間を欲している人はこんな願望を持っていることが少なくない。
「今は忙しいから出来ないけど、時間があったらやりたいことがたくさんある」
たとえば…
「旅行に行きたい!!」
「思い切り趣味に打ち込みたい!!」
「資格の勉強をしたい!!」
「本や映画をたくさん見たい!!」
普段からそんなことを思っている人にとって、この5連休という時間はまさにそれを実現できるチャンスである。
ところが、実際に大型連休などでまとまった時間ができると、意外なことが起こる。
・自由すぎると、かえって動けなくなる

仕事をしていると、一日の予定はある程度決まっている。
朝起きて仕事に行き、帰宅して食事をして、風呂に入って寝る。
休日であっても、「土曜日だから○○をする」「日曜日の夜までに帰る」といった区切りがある。
ところが、大型連休になると、「明日も休みだから、今日は何もしなくてもいい」となる。
これは非常に魅力的な状態である一方、行動を先延ばしにする理由にもなる。
もちろん、この記事に書いたように、休日に何もしないこと自体が悪いわけではない。
普段の疲れを取るために、あえて何もせず過ごすことも大切である。
しかし、それが2,3日と続いて、結局何もしないまま、連休の最終日を向かえて、後悔してしまうことも珍しくない。
宿題というツケを払わされることこそないものの、その様子は夏休みという時間をあっという間に消費してしまう子どもと全く変わらない。
自由な時間が増えたのに、なぜか行動する機会は減ってしまうのである。
これは、ある意味で「制約」が人間の行動を促しているからだろう。
「三連休しかないから旅行しよう」
「試験まで三か月しかないから勉強しよう」
「今日しか時間がないから趣味をやろう」
というように、時間が限られているからこそ、「今やらなければ」という気持ちが生まれる。
逆に、「いつでもできる」となると、今日やる必要性がなくなってしまう。
・本当に欲しいものは「自由」ではないのかもしれない

ここで一つ考えてみたい。
「自由な時間が増えれば、人生は自然に充実する」という考え方は、本当に正しいのだろうか?
実は、「時間がないこと」と「時間があれば充実した生活を送れること」は、別の問題なのである。
忙しさに追われ「時間があれば旅行したい」と思っている時、頭の中にあるのは、実際に旅行の準備をしている自分ではない。
「仕事のない日に、好きな場所へ行って、ゆっくり楽しむ自分」を想像している。
しかし、実際の旅行には、行き先を決め、交通手段を調べ、予約を取り、荷物を準備するという手間がある。
資格の勉強だって同じと言える。
「時間があれば勉強できる」と思っていても、実際には教材を開き、難しい内容を理解し、分からないところで悩み、集中力を維持しなければならない。
つまり、忙しい時には「やりたいことの楽しい部分」を想像しているのに、時間ができると「そこへ到達するまでの面倒な過程」に直面するのである。
「時間さえあれば」という願望が、そのまま行動につながるとは限らないのだ。
「もっと自由な時間が欲しい」と考えて、有給休暇を大量に消化したり、仕事そのものを辞めたりする場合には、さらに大きな問題になる可能性がある。
仕事をしている時は、「仕事さえなければ、もっと自分の人生は充実する」と思ってしまう。
ところが、実際に仕事を辞めてみると、月曜日も火曜日も水曜日も自由である。
すると、「今日はやらなくても、明日できる」という状態になる。
その結果、以前からやりたいと思っていたことを何もしないまま、時間だけが過ぎていくこともあり得る。
そこで初めて、「自分が欲しかったのは、本当に自由な時間だったのだろうか」という疑問が生まれる。
「旅行したい」と思っていた人が、本当に欲しかったのは旅行そのものではなく、「仕事から解放されること」だったのかもしれない。
「趣味に打ち込みたい」と思っていた人が、本当に欲しかったのは趣味をする時間以上に、「誰にも急かされない時間」だったのかもしれない。
「もっと休みたい」と思っていた人が求めていたのは、自由時間の増加ではなく、単純に疲労を回復することだったのかもしれない。
「時間がないこと」が問題のすべてではなかったのである。
自由な時間は、それだけで人生を充実させてくれる魔法ではない。
それを知らないまま自由だけを増やしてしまうと、かえって「せっかく時間があるのに、何もしていない」という新たな苦しさを生むこともある。
・ダラダラと過ごす毎日に心地良さを感じた時が…

ここまでは否定的なことばかり書いてきたが、まとまった自由時間が手に入ることで充実した日々を送れることもある。
今から10年以上前のことになるが、短期の派遣の契約が終了した私は、次の仕事が見つかるまでの1ヶ月半の間、無職として過ごすことになった。
この時は今でも「人生のオアシス」と思うくらい毎日が充実していた。
派遣の仕事は工場勤務で、繁忙期の仕事だったこともあり、週6日勤務も珍しくなかった。
また、これまでのシフト勤務と異なり、平日は5日とも勤務だったため、病院や市役所などの利用にも制限がかかっていた。
そして、その仕事に就いている時に、2年前から始めていた英語の勉強がようやく開花しつつあった。
そんな状況で仕事が終わり、まとまった自由時間が手に入ったので、退職後は一日に何時間も英語の勉強に費やしたり、気兼ねなく病院や市役所に訪れたりと自由を満喫できた(笑)
毎日の犬の散歩や祖母の病院への送り迎えも率先して行った。
週二回、車で自宅から30kmほど離れたハローワークへ通っていたのだが、よく帰り道に大型ショッピングモールに立ち寄って、面白そうな本を探していた。
これまでも無職になることは何度もあったが、この時ほど充実した日々はなかった。
おそらく、その理由は仕事をしていた日でも、「時間がない!!」と嘆くだけでなく、毎日1,2時間は欠かさず英語の勉強をしていたことが大きかったと思う。
日頃から、少しずつでも接点を持ち続けていたことで、まとまった時間が手に入ったら、それを浪費するのではなく、それまでの願いを実現するために思う存分使えたのだろう。
その充実感のおかげで、それ以外の時間も前向きな気持ちで有意義なことに取り組むことが出来た気がする。
この記事で、「またあの時のような日々を過ごすことが出来たらいいな」という願望を書いたことがある。
だが、今の私が当時と同じく1ヶ月半という自由時間を手に入れることが出来たとしても、同じように充実した時間を過ごすことができるという自信は全くない。
雇用保険の失業給付を受給できて、経済的な不安がないとしても、特に目標もなく、毎日遅い時間に起きて、目的もなくネットサーフィンや動画を漁って、孤独に耐えられなければ、ふらっと散歩して、「気晴らし」と称して外食したりと、時間もお金も無駄に消費するだけになりそうな気がする。
無限と思える時間はあっても、「何かを始めよう!!」という気はなく、そんな自堕落な生活から抜け出せなくなっている姿しか思い浮かばない。
歳を重ねることよりも、そんなダラダラと過ごす日々に不満も危機感も抱かずに、心地良さを感じた時が、衰えの始まりなのかもしれない。







