「何がパワハラなのか」だけでなく、「どんな時に犯してしまいがちなのか」も教えるべき

・それってパワハラです

今月に入って、職場の食堂に新しいポスターが貼られた。

内容としてはパワハラの注意を喚起するものであり、次のようなものがパワハラに当たるとして、このような行為を起こさないように注意している。

・他人の見える所で大声で罵倒する

・一人でこなせないような大量の仕事を割り当てる

・逆に仕事を全く与えない

・食事や飲み会への参加強要

・プライバシーに関する噂話の吹聴

私はこのようなポスターを貼ること自体は賛成である。

被害者が、今まで当たり前と思っていた被害が実はパワハラだったと気づくことができる。

その先にどのような対処を取るべきかはまた別の課題だが、それを違法行為だと認識できるだけでも被害者は大きく救われるだろう。

だが、(うがった見方であるが)会社がこのようなポスターを貼る理由は「被害者を救済するためでなく、加害者にパワハラを起こさせないため」だと思われる。

私の勤務している会社はそれなりに規模の大きな会社であり、企業全体のコンプライアンスを監督する部署もある。

彼らの仕事は従業員が不祥事を起こすことを前もって防ぐことである。

もしも、パワハラが原因で、後々裁判などを起こされてしまえば、加害者本人だけでなく、企業の社会責任が問われることになる。

それは会社にとっても大きなダメージになるため、そのような危険を前もって排除しなくてはならない。

偽善と言えばそこまでだが、それで被害を防げるのであれば、それでも構わないだろう。

・加害者が悪人であるとは限らない

しかし、私がこのようなポスターを見ていて感じたのは、「『何をやったらパワハラの加害者になってしまうのか?』ということを伝えても、『どのような時に加害者になってしまいがちなのか?』を伝えきれてない」ということである。

私は部下や同僚をパワハラで苦しめている人が筋金入りの極悪人であるとは思っていない。

彼らにも優しい面はあって、私たちと同じように家族や友人のような大切な人はいる。

ただ、私は「だから、加害者を一方的に悪者にすることはよくない」とか「だから、加害者を無罪放免にしろ」と言いたいのではない。

「普段は善人であっても、何かの理由で条件が整えば(?)すぐに凶悪な加害者に豹変してしまう危険性がある」と言いたいのである。

以前の記事で書いたことがあるが、部下に対して理不尽な振る舞いをしている人たちも「自分は人間味溢れる良い人である」と自己認識していることが珍しくない。

たしかに彼らにそのような一面があることは事実なのかもしれない。

私が未だに許せないと思って、過去の記事でもボロクソに書いてきた派閥のボスや、腐れマネージャーX氏も、時には気さくに世間話をしてくれたり、私の体調を気にかけてくれたこともあった。

ただし、「(彼らの)機嫌がいい時」に限った話である。

彼らは普段は温厚な性格なのだが、機嫌が悪い時は露骨にそれを現して、他人に厳しく当たるのである。

彼らの頭の中には、先ず「理不尽な扱いをしてもいい相手か?」という判断があり、その対象者に対しては、自分の行動を正当化できる理由があれば意外と簡単に一線を越えることが出来るのである。

彼らには、機嫌がいい時には親しく接する人間性はあっても「たとえ自分の腹の居所が悪くても、絶対にパワハラとみなされる行為をやってはいけない」という規範意識は存在しない。

もちろん、自分たちがパワハラの加害者であるとは思ってもいない。

前回の記事で少し触れた、職場における派閥支配も同じだろう。

彼女たちは仲間内ではとても友好的な関係を築いている。

そのため、「まさか、自分たちが『派閥支配』などと呼ばれる浅ましい行為をやっている」などとは夢にも思ってもいないのである。

このように、ある場面では、人間味溢れる善人であっても、別の局面ではひどく恐ろしい悪魔の顔を見せることは全くおかしなことではない。

その極端な例が、恐怖政治を執り行い、政敵を虫けらのように殺しまくっている独裁者なのだろう。

彼らにとって大事なのは、共感したり、味方だと思える相手かどうかで、「何があっても人を殺してはいけない」という人権意識ではない。

というわけで、パワハラを防ぎたいのであれば、このような呼びかけをした方がいいと思う。

・疲れていたから

・自分の昇進がかかっていたから

・本人の将来のためを思ったから

・自分が若い時はもっと苦しい経験をしたから

これらはすべて言い訳であり、パワハラの免罪符にはなりません!!

自分の中の怪物と戦うことができない人間に人の上に立つ資格などない!!

・加害者になりそうな気質とは?

残念ながら、「人当たりがいい」という理由だけでは「加害者になるはずがない」と言えないし、「こういう性格の人が上司なら絶対に安心」と断言することもできない。

私も、あなたも「絶対に加害者にならない」という保証はどこにもない。

私はパワハラというのは交通事故のようなものだと考えている。

普段から交通ルールを守っている人であっても、事故を起こす可能性はある。

事故を起こしてしまえば、たとえ悪意がなくても警察に逮捕されることはあるし、被害者には怪我の治療費や慰謝料を払わなくてはならないこともある。

そこには、「加害者が普段はどんな人であるか?」とは無関係に事故を起こしてしまった加害者としての責任が生じる。

また、被害者に落ち度がなかったとしても「ボーと突っ立いたお前にも原因があるのではないか?」と非難される点も似ている。

このようにパワハラとは交通事故と同じようなものだと考えることができる。

そして、普段から車の運転が荒い人は事故を起こす危険性が高いことと同様に、「このような人はかなり高い確率で加害者になるな」という傾向を事前に察知することもできる。

私の経験では「言葉に対する寛容さがない人間」はまさにそうである。

「言葉に対する寛容さ」とは、相手の言葉が不確実であっても、相手の立場で物事を考え、何が言いたいのかを理解することであり、それがない人間は相手の些細な言葉尻を大げさにとらえて、間違いだと感じればネチネチと指摘し続けるのである。

あなたも職場でそのような人物を見かけることがあるだろう。

もちろん、曖昧なままにしておくて、重大な事故につながるから、どうしても相手の言葉の意味を突き詰めなければならない場面もある。

たとえば、私が以前、小売りの仕事で働いていた時に店長とパートの女性の間でこんなやりとりがあった。

パート女性:「すいません、店長。今年のゴールデンウィーク(4/295/5)は家族で旅行へ出かけたいので5/4まで休みにしてもらえませんか?」

店長:「ええ、大丈夫すよ。ゴールデンウィーク(5/35/5)に1日でも出勤してもらえれば十分です」

パート女性:「ええ!! いいんですか!? 本当にありがとうございます!」

このように2人の間に「ゴールデンウィーク」という言葉の認識の違いが生じてしまい、その誤解に気付いた時には、すでに彼女が旅行の手配をした後だったため、今さらシフトを変更することができず、人員確保のために店長は1週間以上休みなしで働くことになってしまった。

そのため、店長は最初に「『ゴールデンウィーク』というのはいつからのことですか?」と明確にしておくべきだったのである。

しかし、このような状況で相手の言葉の意味を突き詰めるにしても、大事なのは自分の価値観を一方的に押し付けるのではなく、あくまでも確認することである。

相手が思っていることは変えることが出来ないから。

それができない人間は、自分と他人が別の人間であることを受け入れられず、自分の一部だと思って、些細な言葉の使い方でも、自分のやり方で強引にコントロールしようとするのである。

要するに、言葉に対する寛容さがないことは「コミュニケーション能力が欠如」のことである。

だが、そのような人間にとって、「コミュニケーション能力」とは考えが違うもの同士が歩み寄る能力のことではなく、立場の弱い者が、感情や態度を操作して、強い相手にすり寄る「感情売春」、「感情奴隷」の意味だったりする。

だから、「自分にその能力が欠如している」という自覚は全くなく、逆に「コミュニケーション能力が低いのは自分を気持ちよくしてくれない相手の方である」と思っている。

ホントに質が悪いったらありゃしない。

それが彼らの生まれ持った性格であるというのであれば、他人はそれを変えることはできない。

もしも、そのような人間がパワハラを起こしたら、野犬を捕獲して殺処分することと同じように、犯罪者として処罰するしかない。(罪のない野良犬とパワハラの加害者を一緒にすると動物愛護団体から苦情が入りそうだが、たとえ話なのでどうかご容赦願いたい)

しかし、ごく平凡な人間が何らかの要因で、そのような精神状態に陥ってしまった場合は周囲の呼びかけで止めることはできる。

というわけで、部下の些細な言葉の使い方にイライラさせられているそこのあなたはパワハラの加害者となってしまう黄色信号です。

加害者になってしまう前に、信頼できる同僚、または精神科の先生に相談しましょう。

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