今回は季節ネタから入るが、内容は前回、前々回と同じく、ネット上で外国人とメッセージの交換に関する話である。
・大晦日の過ごし方
今日は2018年の12月31日、大晦日である。
みなさんは何をして過ごしているだろうか?
大晦日のテレビ特番を見たり、年越しそばや初詣の準備をしたりしているかもしれない。
ちなみに、私は大晦日の特番を一切見ない。
テレビだけではない。
年越しそばも食べない。
初詣も手書きでは漢字を書けないくらい興味がない。
年賀状も10年近くは書いていない。
職場から年賀状が送られてきても、一切送り返さない。(はい。さすがにこれは非常識ですねf)
別に嫌っているわけではないが、見たいとも食べたいとも行きたいとも書きたいとも思わないのである。
そもそも、彼らがこれらを好む理由はなんだろうか?
NHKの紅白歌合戦を見て、今年はどんな歌がヒットしたのかを振り返りたいから?
年越しそばを食べて寿命や運を伸ばしたいから?
仕事でお世話になる人に年賀状を出さないと、仕事上の不利益を被るから?
私は、彼らはこれらの大晦日の習わしを通じて、「人と共通の世界を生きていると感覚」を味わいたいのだと思う。
もちろん、誰かと一緒にそれを行うに越したことはないだろうが、たとえ、同じ空間で一緒にテレビを見たり、同じそばを食べたりしなくても、相手も大晦日はこういうことをやっているものだという感覚を共有できれば、相手も自分と同じ世界に生きているものだと思えて、言葉など通さなくても仲間意識というか相手を自分の暮らす社会の一員とみなして接することができるのだと思う。
彼らはこの「共通の世界を生きているという感覚」を求めているのだと思う。
それと対照的な他人との接し方が「言葉によるコミュニケーション」だと思う。
アメリカという国を想像してほしい。
アメリカにはいろいろな人がいる。
内面の違いだけでなく、人種、宗教など様々なバックグラウンドを持つ人が暮らしている。
このようなお互いの共通の前提が全く異なる人が共存する社会で生きていくには、相手は自分と違う考えを持っているということを認めて、言葉によるコミュニケーションを通じて他人と折り合いをつけていくしかない。
この自分の考えを主張したり、相手の話を聞いたりする能力が「コミュニケーション能力」だと思う。
(もちろん、実際にはアメリカ人全員がこの能力に長けているというわけではないだろうが・・・)
・内と外の関係
この違いは「内と外」の関係に例えられる。
「共通の世界を生きているという感覚」が相手に内側の人間であることを求めているのなら、「言葉によるコミュニケーション」は相手が外側にいるという前提に立っている。
私はこの「内と外」の極端な変化を表す事例を何度も目にしてきた。
私はかつてスーパーやディスカウントストアにテナントとして店を出している小規模な小売業で働いていた。
私はこの仕事を始めた時、同じ店に出店している別のテナントの従業員(特に店長クラス)とは随分と不思議な距離感が生まれた。
まず、彼らは私があいさつをしても基本的にはあいさつを返さない。
私が店内で客によその店の商品の場所を聞かれて、担当者に場所を尋ねても、ぶっきらぼうに「そこ」、「ここ」などと一言で済まされた。(一言も発せずに顔で指示されたこともあった)
そんな彼らも、こちらから一ヶ月以上あいさつし続ければ次第に態度が軟化してきた。
そこから、「年はいくつ?」とか「どこに住んでいる?」といったことを聞かれるようになり、半年ほど経てば自分の会社の従業員のように接してくるようになった。
これが各店舗共通のパターンだった。
彼らの本当の姿は「よそ者を一切受け付けない排他的な人間」と「親しい相手への人情味あふれる人間」のどちらなのだろうか?
この答えはどっちが正しいというわけではなく、彼らが見知らぬ(外にいる)相手に対して「言葉によるコミュニケーション」の手段を持っていないというだけである。
だから、最初は無視に近い形でしか人に接することが出来ず、長い時間をかけて、相手も自分と同じ世界に生きている仲間(内の人間)だということがわかれば、安心して心を開くことができるのである。
このような振る舞いを「芋侍型コミュニケーション」と呼ぶことにしよう。
侍とは言葉で饒舌に語るのではなく、剣と振る舞いで語る不器用な人というイメージがある。
そして小さな世界で生きている限り、言葉など必要ないのである。(ちなみに芋とは田舎者のこと)
…って、こんな名前を付けたら、地方在住者のことを露骨に蔑んでいるようだが、東京の中心地にある高層ビルで働いていた時もこのような振舞の人には何度も遭遇してきたことを断っておく。
・オンライン上で人と接するために必要な能力
ここで、タイトルにある「外国人とメッセージのやり取りに必要な能力」について考えてみよう。
メッセージの交換を行う相手は自分とは違う考え方を持った人間(つまり外にいる人間)なので、それを続けるために必要な能力は「言葉によるコミュニケーション」である。
そのため、「相手も自分と同じだろう」とか「言わなくてもわかるだろう」という芋侍的な意識は捨てて、絶えず、言葉による意思の表現と相手への確認を行わなくてはいけない。
そもそも、これは「相手が外国人だから」という場合に限定された話ではないと思う。
実際に会ったことのない相手とは、たとえ、同じ国に住んで、同じ言葉を話す人でも「同じ世界を生きているという感覚」で接することは不可能ではないだろうか。
多くの日本人は「言葉によるコミュニケーション」が苦手で、「同じ世界を生きている感覚」を好むため、このハードルがとても高いことはわかっている。
例えるなら、外国人が主催するホームパーティーに招待されても、ほとんどの人は自分から話しかけることができないし、そもそも何を話したらいいのかもわからないから困るというようなものだ。
しかし、「相手も自分と同じだろう」という世界に安住せずに、たとえ失敗しても、経験を積み重ねないと前には進めない。
もちろん、大晦日の習わしのような「同じ世界を生きる感覚」を求めることを全否定することが、言葉によるコミュニケーション能力を高めるなどと思っていないし、そもそもこれらの2つのことが反比例の関係にあるかどうかもわからない。
私は先述の芋侍店長たちのことを「外の関係を築けないコミュ障、社会性の欠如」などと非難するつもりもない。
ただ、彼らの人との接し方は外国人とインターネット上でコミュニケーションを取るにはあまりにも向いていないという話しである。
と一日で48人と連絡が途絶えた私がエラそうな結論(にもなっていない?)を書いて、2018年の文章を締めることにする。